城に眠る伝説と謎 第4夜 【伏見城】 壮絶!血染めの天井板に隠された京都・伏見城の悲劇!

全国のお城に伝わる伝説や奇譚を取り上げ、歴史をひもとく「城に眠る伝説と謎」。第4夜は、京都の伏見城の血天井。伏見城の床板はなぜ寺院の天井になったのか。忠臣の壮絶な最期に迫ります。




伏見城の血糊の床板が寺院の天井に!?

京都市東山区にある養源院。創建は文禄3年(1594)で、豊臣秀吉の側室・淀殿が、父である浅井長政の菩提を弔うために建てたものである。元和5年(1619)に火災で焼失するが、淀殿の妹である崇源院(江)により再建された。寺内には俵屋宗達の襖絵や、左甚五郎の鴬張りの廊下もあり、観光スポットとしても有名だ。

養源院、山門、伏見城、殿舎、移築
養源院の山門。本堂は元和の火災後に伏見城の殿舎を移築して再建された

とくに興味をそそるのは、本堂の廊下にある〈血天井〉。その名の通り、血糊のついた天井板である。「寺院内で斬り合い!?」と思う人もいるだろうが、この天井板はかつて伏見城の床板だったもの。「床板を天井板に?資材不足を廃材で補ったの!?」。いや、それも違う。この血天井には、武士の忠義にまつわる壮絶な物語が隠されており、養源院のほか、京都府内の複数の寺院に見られる。伏見城の血糊の床板が、寺院の天井に使われた理由とは…?

伏見城の攻防戦は鳥居元忠の最後の忠義心か?

秀吉の没後、最高意思決定機関であった五大老の筆頭・徳川家康は慶長5年(1600)、対立関係にあった上杉景勝討伐のために会津へ出兵。その途中、家臣である鳥居元忠がいる伏見城に立ち寄っており、このときのふたりのやり取りが『名将言行録』に記されている。元忠のために兵をたくさん残していけないことを詫びる家康に、元忠は「会津は強敵なり、一人も多く召具せられ然るべし、伏見には某一人にて事足り候」と答えている。

6月18日、家康は会津に向けて伏見城を出立。その隙に乗じて、反家康派の石田三成らが挙兵、7月18日に伏見城を取り囲んだ。世にいう伏見城の戦いであり、天下分け目の決戦・関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる。この三成らの伏見城攻撃を、家康も元忠も予想していただろう。解釈はいろいろあるが、元忠の上の言葉は、死を覚悟して三成の軍勢と戦うつもりだったともとれる。

名将言行録、伏見城、元忠
幕末から明治時代にかけて執筆された『名将言行録』には、伏見城の戦いでの元忠の奮戦が詳細に書かれている。傍線は元忠の切腹シーン

4万もの大軍で押し寄せた三成に対し、迎え撃つ元忠の軍勢はわずか1800。元忠らは奮戦したが、兵力の差は圧倒的。8月1日には城内に三成の軍勢がなだれ込んでくる。元忠は三成側の武将のひとり・鈴木重朝と一騎討ちの末、切腹して果てたのだった。元忠側のおよそ300名の武士も城内で切腹。開戦から14日目、ついに伏見城は落城するが、三成らを10日以上足止めし、その後の進軍を遅らせ、結果的に家康の勝利に資することになったともいえる。家康と元忠は家康が今川家に人質になっていたとき以来の主従関係だ。元忠が最後の忠義心を見せた戦いだったのかもしれない。

忠義の家臣を供養するために床板を天井へ

元忠らの亡骸は気の毒なことに、関ヶ原の戦いが終わるまでの間、そのまま放置されていたという。そのとき、伏見城の床板には血糊がこびりついてしまったそうだ。関ヶ原の戦い後、これを見た家康は元忠らの忠義に感激。彼らを供養するため、養源院をはじめとする徳川家にゆかりある寺院でこの床板を保存することにしたのである。天井板にしたのは、決して誰にも踏まれることのないようにするためだった。

伏見城、畳、江戸城、伏見櫓、精忠神社
家康は元忠が自害した際に血に染まった畳を江戸城(東京都)の伏見櫓の階上に置き、その忠義を大名らに偲ばせた。この畳は明治維新後、鳥居家に下げ渡され、元忠を祀る精忠神社の畳塚に埋納された。

この血天井、養源院のものがもっとも壮絶で、切腹した武士たちが悶え苦しみながら這いまわったあとや、手形などを見ることができる。彼らの断末魔の苦しみだけでなく、決死の忠義心がそこに残されているのかもしれない。


執筆/松本壮平
ライター・編集者。1972年、大分県中津市生まれ。慶應義塾大学文学部史学科日本史学専攻卒業。歴史、グルメほか多ジャンルで執筆。『食楽web』(徳間書店)にてからあげ食べ歩きコラム「から活日記」連載中。

※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています

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