2018/08/30
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第9回 【岡崎城】明らかになる江戸時代の岡崎城
日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、岡崎市教育委員会社会教育課 山口遥介さんによる、岡崎城(愛知県)の最新情報をお届けします。発掘調査によって徐々に明らかになってきている、江戸時代の岡崎城の姿とは…?
発掘調査・石垣調査の進展
岡崎城では、「岡崎城跡整備基本計画(改訂版)」の策定(2017年)、「岡崎城跡石垣保存修理基本計画」の策定(2018年)に基づき、今後整備を検討する際の基礎資料とすべく発掘調査や石垣調査を継続的に実施している。
復興天守と月見櫓発掘調査箇所の遠景
菅生川端石垣の発掘調査
岡崎城の南側は菅生川(乙川)に面し天然の要害をなしている。近世の絵図ではこの菅生川に面して「菅生川端石垣」が描かれ、近世の史書等からは岡崎藩主・本多忠利が寛永年間に築造を開始し、正保元年(1644)には完成したとことが知られていた。しかし発掘調査以前は、石垣は僅かにしか露出しておらず残存状況については悪いものと思われた。
江戸時代後期頃の菅生川周辺絵図(岡崎市美術博物館提供)
2015~2016年度に断続的に行われた発掘調査により、石垣のほとんどが河川敷に良好に埋没していることが分かり、絵図に描かれたように菅生川に沿って長大な石垣が残存することが明らかになった。
調査で発掘された菅生川端石垣
石垣の総延長は約400mにも及び、菅生川に沿った直線的な形状に3か所の枡形が突出する。発掘調査により石垣基底部の胴木及び杭木が確認され、根石から天端までの石垣総高が5.4mであることや、岡崎城内では希少な刻印を持つ石材も多く確認された。一方で石垣は基底部から数段を残し、それより上部は多時期に渡る積み直しが想定される。河川に面した立地であり、城壁石垣であると同時に河川護岸としての機能もあわせ持つ性格から、近世を通じて修築が繰り返し行われたことが分かる。
月見櫓の発掘調査
岡崎城内には近世の建物は現存せず、廃城前に撮影された古写真も僅かしかない。月見櫓については数点の古写真が知られ、構造等を知る手がかりが残る建物の一つである。
明治初期に撮影された月見櫓
この月見櫓跡において2017年度に発掘調査を実施した。発掘調査により月見櫓やその脇多門櫓等の櫓台石垣が検出された。櫓台石垣は南・西辺は下位の曲輪(風呂谷曲輪)から築かれた高さ6.2mの石垣に対し、本丸側にあたる北・東辺は2段程度の石積みであった。櫓台の規模は東西6.2m、南北8.7mで、明和7年(1770)の文献記録の数値と一致しない。櫓台石垣の構築時期(修築時期)と合わせた月見櫓の建築時期の検討が必要である。
月見櫓の発掘状況
石垣調査
岡崎城に石垣が豊富なイメージを持つ人は少ないかもしれないが、城内には多時期にわたり築かれた石垣が良好に現存し、岡崎城の本質的価値を構成する重要な遺構といえる。2017年度に石垣調査を実施し、岡崎城の石垣の特徴について多くの知見を得た。
天守台の石垣。花崗岩の自然石を横置きして築かれ、中段には城内で最大の鏡石が配置されている(現在はこの手前に龍城神社が建っている)
持仏堂曲輪腰巻の石垣。比較的発達した算木積となっている
天守台石垣は城内で古手の様相を残す石垣の一つで、大きさ・形の不揃いな自然石を用いて築かれている。隅角部では石材を重ね積みする箇所がみられ、算木積は未発達といえる。また築石部では石垣中段に大型の鏡石を配置するなど天守台石垣として堂々たる存在感を示している。天守台石垣の他にも本丸周囲を取り囲む石垣に技術的な変遷を追うことができるほど豊富な石垣が現存していることがわかった。先に触れた菅生川端石垣も含め、石垣変遷の整理が急務である。また使用している石材はほぼ全て花崗岩であり、領域内に広く分布するものである。近年の分布調査により市内で多くの石切り場が発見されているが、石切り場が石垣石材と結びつく確証は得られておらず、引き続き調査研究が必要である。
岡崎城(おかざき・じょう/愛知県)
岡崎城は15世紀中頃に西郷頼嗣が築城したとされる。その後、松平・徳川の城として三河支配の拠点となった。天正18年(1590)に田中吉政が入城すると織豊系城郭へと発展した。近世を通じては徳川家譜代大名が城主となる。明治時代の廃城後は城の中心部が岡崎公園となり、岡崎市指定史跡となっている。
執筆者/山口遥介(岡崎市教育委員会社会教育課)
写真提供/岡崎市教育委員会社会教育課