超入門! お城セミナー 超入門! お城セミナー 第12回 |【歴史】お殿様って天守に住んでいたの?

初心者向けにお城の歴史・構造・鑑賞方法や、お城の用語など、ゼロからわかりやすく解説する「超入門!お城セミナー」。今回のテーマは御殿。戦国武将や江戸時代の大名は、城のどこに住んでいたのか解説します。

天守に住んでいたのは信長だけ!?

権力の象徴として大名たちがこぞって築いた天守。城のなかでもいちばん目立つ建物のため、「お殿様は天守に住んでいたんじゃないの?」と思う人は多いと思いますが、実際はどうだったのでしょうか。

天守を生活の場としていた人物は存在します。天守第一号である安土城(滋賀県)天守(安土城の場合は天「主」)を造った織田信長です。信長は安土城天主の内部を豪華な障壁画などで飾らせ、自分の居住空間としていました。

では、信長以降の大名は天守に住んでいたのでしょうか。実際に天守の中を見て確かめてみましょう。下の写真は、江戸時代から現存する彦根城(滋賀県)と姫路城(兵庫県)の天守の内部です。どうでしょうか、どちらの天守も国宝に指定されるほどの壮麗な外観を持っているのですが、内部は柱や壁の木がむき出しで装飾性は一切ありません。緊急時に寝泊まりするくらいなら何とかなりそうですが、城主が生活する場所としてはふさわしくありませんね。
 
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彦根城天守の内部。床は板張りでふすまも非常に簡素なものだ

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姫路城天守の内部。広い空間だが柱はむき出しで欄間も一切装飾がない

そう、信長以外の武将や大名は天守には住んでいませんでした。彼らは城の本丸や二の丸などに造られた御殿と呼ばれる建物に住み、政治を行っていたのです。御殿には「表御殿」と「奥御殿」の二つがあり、「表御殿」で城主は家臣たちと政務を行います。「奥御殿」は城主とその家族が生活する私的空間です。現在の首相官邸と首相公邸のようなものと言うと分かりやすいでしょうか?

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高知城(高知県)の天守と本丸御殿。御殿建築は全国に4城しか現存しておらず、高知城は天守と本丸御殿が両方残っている唯一の城だ

天守は何に使われていたの?

では、城主の住まいでないのなら、天守は何に使われていたのでしょう。

戦国時代の天守は、城の最終防御拠点として造られていました。籠城戦で追い詰められた場合に城主が立て籠もる、文字通り最後の砦だったわけです。実際、姫路城には台所や厠(トイレ)など最低限の生活設備が整えられており、本丸が占拠されても天守で戦い続けることができるようになっていました。他にも松江城(島根県)のように、天守入口の附櫓にたどり着いた敵を攻撃出来るよう天守内に狭間や石落としを設けていた城もあります。
 
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姫路城天守の地階の厠(左)と松江城の天守地階の井戸(右)。軍事拠点として造られた天守には、最後まで戦い抜くための工夫が施されている

ところが、江戸時代に入り戦がなくなると、天守は軍事拠点としての存在意義を失いました。倉庫となったり、藩主交代のお披露目に使われたりすることもありましたが、大半は使われることなく象徴として存在するだけになってしまいます。さらに「一国一城令」が出されると、天守の新築や修復、再建にも制限がかかるようになりました。信長や秀吉が築いたような巨大天守は、幕府の許可なしには造れなくなってしまったのです。

それでも、大名たちは天守のある城への憧れがあったようで、「御三階櫓」という三重の櫓を事実上の天守として扱う藩もありました。これを「天守代用」といい、現存12天守のなかでは、弘前城(青森県)や丸亀城(香川県)がそのパターンです。

また、城の修築が困難だった時代に天守の再建に挑んだ大名もいました。松山藩主の松平定国は落雷で失われた伊予松山城(愛媛県)の天守を再建するために幕府の許可を取り、父子3代、30年以上かけて天守を再建。天守が出来上がったのはペリーが再来航した安政元年(1854)になっていました。昔の大名たちも私たちと同じように、天守こそ城の象徴する建物だと考えていたことがわかります。

執筆・写真/かみゆ歴史編集部
「歴史はエンタテインメント!」をモットーに、ポップな媒体から専門書まで編集制作を手がける歴史コンテンツメーカー。手がける主なジャンルは日本史、世界史、美術史、宗教・神話、観光ガイドなど歴史全般。主な城関連の編集制作物に『日本の山城100名城』『超入門「山城」の見方・歩き方』(ともに洋泉社)、『よくわかる日本の城 日本城郭検定公式参考書』『完全詳解 山城ガイド』(ともに学研プラス)、『戦国最強の城』(プレジデント社)、『カラー図解 城の攻め方・つくり方』(宝島社)、「廃城をゆく」シリーズ(イカロス出版)など。

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