2018/03/20
城:縄張から普請まで|加藤理文 織田信長の城・安土城 第4回 | 安土山の道
日本城郭協会理事 加藤理文先生による「城:縄張から普請まで」をテーマにした講座、安土城編。今回は、安土城の謎の一つでもある安土山の道に着目。
「城:縄張から普請まで|加藤理文」
安土山主要部へ至る道は、谷筋と尾根上を利用し山麓から主要部へ続く道(幹線)と、それらを結ぶ等高線に沿った横道(支道)とに大きく二分される。文献史料、発掘調査、現地踏査等から現時点で考えられる確実に主要部と山麓を結ぶ幹線は5筋である。

安土山の主な城内通路(滋賀県教育委員会編著『安土 信長の城と城下町』 サンライズ出版 2009 より転載)
1 大手道(安土山南面中央の谷筋に設けられた道で、直線で約180m延び、伝徳川家康邸の上で西へと折れ30m程進み、伝武井夕庵(たけいせきあん)邸からはつづらに折れて百々橋(どどばし)口道に合流)。
2 東門口道(南東山麓の腰越から尾根を伝わり、東門口から城内に入る通路)。
3 百々橋口道(城下町と主要部を結ぶ尾根道で、摠見寺を通る唯一記録に残る道)。
4 搦手道(台所道とも言う。北東山麓から東門口道の北方の谷に設けられており、井戸郭を通り、八角平~主郭外周路へ通ずる)。
5 七曲道(城下町から百々橋口北方谷間を九十九に折れて伝黒金門へ直接通じる唯一の通路。途中に、伝織田信澄(おだのぶずみ)邸、森蘭丸(もりらんまる)邸が所在する)。
これら5筋のルートと山の斜面に放射状に伸びる全ての道は、中枢部(伝黒金門(くろがねもん)より中)の外郭をなす高石垣の裾を廻るように設けられた主郭外周路(本丸周回路)へと接続している。この外周路が存在する為、主要部に入ることなく、各ルートの行き来が自由であった。大手道、百々橋口道、七曲道、黒金門からの道という4つの道が伝織田信忠(おだのぶただ)邸で合流しているが、伝信忠邸は後世の改変によって、それぞれの道がどう接続するのかがはっきりしない。だが、この地点は4筋の道の合流場所になることは確実で、往時はここに番所的な施設があったのかもしれない。
『信長公記』の記載から、百々橋口道を利用し伝黒金門を入り、伝本丸南虎口を出て東門口道を下りて、下街道へと続く通路が信長配下の武将たちの接見のための正式ルートであったと考えられる。『信長公記』天正十年正月一日に「隣国の大名・小名御連枝(ごれんし)(身分の高い人の兄弟)の御衆、各々在安土候て、御出仕あり。百々の橋より惣見寺へ御上りなされ、(後略)」と、近隣諸国の大名や小名、織田家一門の人々が、百々橋口から登って来たことが判明する。年頭の出仕である以上、謁見のための正式な通路使用が当然となるため、百々橋口→摠見寺(そうけんじ)→伝黒金門→本丸御殿対面の間というのが謁見のための正式ルートであったことが判明する。

百々橋口道と摠見寺山門
発掘調査で確認された登城路(大手道)は、幅約6~7mで両側に幅約1m強の側溝と高さ3mの石塁に囲まれ、伝徳川邸まで約180mが直線で伸び、ここから西へ90度折れ30m程をほぼ水平に進み、そこから急斜面を九十九(つづら)に登り、伝武井夕庵邸上で、百々橋口道とT字型に突き当り合流する。
この直線の大手道が、天皇の安土行幸のための「御成道」との見解も示されているが、果たしてこの道を登ることが出来たのであろうか。通常、天皇の移動は輿(こし)(宝形造(ほうぎょうづくり)※の屋根を上に載せた輦輿(れんよ)か屋根の頭頂部に鳳凰を載せた鳳輦(ほうれん))に乗ってである。では、大手道は輿を担いで登れるだろうか。直線部分は、何らかの方法で可能であろうが、九十九に折れる部分の輿移動は、どういう手段を用いようと不可能としか言いようがない。つまり大手道は御成道としての体をなしていないということだ。この変則的な大手道は、いったい何を目的に造られたのか? この道も、安土城の謎の一つなのである。

整備された直線で伸びる大手道

急斜面を九十九に登る大手道
※宝形造…四方の隅棟が屋根の中央の一つの頂点に集まっている物。例えば神輿の屋根などである。
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加藤理文(かとうまさふみ)
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭
著書 『織豊権力と城郭-瓦と石垣の考古学-』高志書院 2012年
『江戸城を極める』サンライズ出版 2014年
『織田信長の城』講談社現代新書 2016年
『静岡県の歩ける城70選』静岡新聞社 2016年
『日本から城が消える』洋泉社歴史新書 2016年 等多数









