萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第4回 福江城 日本でもっとも新しい、幕末に築かれた海城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け!今回は直接海へと出られる海城 福江城(長崎県)。江戸幕府から許可された特例の城とは?



福江城、搦手門、外堀、蹴出門
福江城の代表的な撮影スポット、搦手門と外堀。ここから藩主の馬が出入りしたため、蹴出門とも呼ばれる

舟入も残る、直接海へと出られる海城

五島氏の居城・福江城(長崎県五島市)は、嘉永2(1849)年に築城が開始され、文久3(1863)年に完成しました。そう、元和元(1615)年の武家諸法度以降、江戸時代を通じて城は築かれないはずですから、幕末に築かれた福江城は江戸幕府から許可された特例の城ということになります。

その背景には、幕末の情勢が関係します。福江藩五島氏は、慶長19(1614)年に江川城が全焼すると寛永15(1638)年に石田陣屋を設け藩庁としたものの、小藩のため幕府に築城が認められることはありませんでした。ところが、幕末になり外国船の来航が頻繁になったことで、海防論が隆盛に。その動きが追い風となって、日本最西部の島々を所領とする五島藩に、海防を目的とした城を築くことが許されたのです。最初の請願から、実に43年後のことでした。

海防目的の城であるため、海に突き出す海城であるのが最大の特徴です。城の南・北・東は海に面し、二の丸や北の丸など主要な各曲輪の隅には、櫓ではなく石火矢台場という砲台が配置されました。現在も、城内から直接海に出られるように設けられた舟入を、三の丸東隅部に見ることができます。

福江城、五島、舟、ジェットフォイル
五島へは、長崎や佐世保から船でもいける。長崎港から福江港までは、ジェットフォイルなら約1時間25分。福江港から福江城までは車で6分、徒歩11分ほどで着く

五島氏庭園隠殿屋敷や武家屋敷通りへも

福江城のある福江島は、五島列島の南端にある最大の島。福江城は福江市の東部、福江港から南西300メートルの位置にあります。現在は開発が進み、とくに大手門付近は埋め立てられてしまいましたが、石垣や水堀を辿れば往時の姿を想像することができます。

ほぼ正方形の本丸を内堀が囲み、その外側に二の丸と三の丸が配され、外堀がめぐる構造です。外堀を隔てた北側には北の丸が置かれています。おもしろいのは、本丸跡が五島高校になっていること。高校の正門付近は高い石垣で囲まれていて、不思議な感覚です。江戸時代最末期に築かれた福江城でしたが、その歴史はわずか9年。明治5(1872)年に陸軍省の所管となると一部の楼門を残し解体されてしまい、その後明治33(1900)年には五島中学校(現在の五島高校)が建てられました。

城の西側、もっとも海から離れた安全な二の丸の一角に築かれているのが、藩主の隠居所である五島氏庭園隠殿屋敷です。10代藩主・五島盛成が文久元(1861)年に造立され、京都の僧・全正に命じて作庭された、心字ヶ池を中心とする庭園が併設されています。作庭時期が明確で建物も保存されていることから国名勝に指定されている庭園は、一見の価値ありです。

城を出たら、武家屋敷通りへも。福江藩2代藩主の五島盛利による中級武士以下の居住区域で、寛永11(1634)年、中央集権体制を目指した盛利が豪族や五島藩士約170家をここに集め移り住まわせたといわれます。目に止まるのは、塀の上にこぼれ石と呼ばれる丸石を積み重ね、両端を蒲鉾型の石で止めた石垣。こぼれ石はいざというときには武器になり、また外敵の侵入を音で知らせる道具にもなったとか。約400メートルの風情ある通りをのんびり歩くのもいいものです。

福江城、武家屋敷通り、五島氏庭園隠殿屋敷
江戸時代の風情が残る、武家屋敷通り。福江城、五島氏庭園隠殿屋敷とまわったら、ここも訪れておきたい。時間があれば教会めぐりも

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)など。「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)2018年9月14日発売、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)2018年9月18日発売。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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