お城の現場より〜発掘・復元最前線 第6回 【松前城】復元整備が進む松前氏の城

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、松前町教育委員会 前田正憲さんによる、松前城(北海道)の発掘調査の情報をお届けします。整備が進められる松前城で新たに発見された資料とは!?



松前城、福江城、全景
松前城(福江城)の全景

発見された石切り場跡

史跡整備のための発掘調査を、1980年に本丸部分から開始した。これは本丸にあった旧松城小学校の解体調査で、多くの本丸御殿古材が転用・再利用され残っていたことによるもので、御殿復元のための発掘調査であった。
しかし、土台石等の遺構の保存状態が良くなかったため、良好であった二ノ丸三ノ丸南東部の復元整備に移行していった。

2002年までに、現在見る二ノ丸土居・三本松土居・二ノ丸土塀・外堀・木橋・搦手二ノ門・天神坂門などの復元整備と、二重太鼓櫓跡・隅櫓跡・馬坂門跡などの平面表示や、1/300の地形模型を配置し、史跡の理解に役立てている。
 
松前城、福江城、神明石切り場跡、発掘
神明石切り場跡の発掘状況

2004年には、復元整備の石垣石を切り出すために道路を開削しようとしたところ、幕末の石垣遺構が発見され、「神明石切り場跡」として埋蔵文化財登録を行った。さらに周辺を調査したところ幕末の石切り場跡が発見され、古文書にもこの場所からの切り出し記録が残ることから、2013年、史跡に追加指定された。

福山城の石垣石は「神明石切り場跡」から産出する緑色凝灰岩で、切込接で積み上げられる。前身の福山館では、この軟石を用いた石積み手法は無く、大型の川原石の野面積であり、打込接も無い。

新資料から明かされた復興天守の構造

福山城天守は、1941年に土塀・本丸御門とともに国宝指定(現在の重要文化財)指定となるが、1949年に天守が焼失した。その後、1960年にコンクリート天守を復興したが、近年老朽化が著しくなったので、町は「復興天守の整備活用」について、2010年から検討を開始した。そして2011年に町は、復興天守の「耐震調査」と、天守に関わる「史資料調査」を実施した。耐震調査では、コンクリート天守の1階から3階まで耐震性に「疑問あり」とされ、現状建物に所定の強度を得るための補強が必要とされた。また、史資料調査では、慶応3年(1867)から焼失前までの天守写真を収集し、さらに復興天守を設計した大岡実資料の調査を行った。

松前城、福江城、天守、本丸御殿
焼失前の天守と本丸御門

松前城、福江城、天守、再建工事
天守の再建工事の様子

大岡は建築史研究者であるとともに、木造古建築の不燃化を目指し、RC作りで日本伝統の建築様式の再現を試みており、その作品の一つが福山城天守であった。

それら大岡の資料が、川崎市立日本民家園に一括して寄贈されていた。そのうちの福山城天守資料の中には、福山城天守の国宝指定時に、文部省が作成した1/30の実測図(未完成)や、大岡自身による焼失前の柱間や焼失後の土台の実測図、再建工事図面・工事中の詳細写真・工事報告書などがあった。

これらの資料を調査検討した結果、天守台の石垣石と初層の壁を支える「土台石垣」が動かされておらず、主要構造柱が「土台石垣」の内側に収められ、荷重が一切石垣にかからない構造であったことが判明した。さらに、天守台地盤面についても実測メモが発見されている。

松前城、木造天守断面
「大岡実資料」の天守断面図(下)と「大岡実資料」をもとに作成された天守断面の状況(上)

町はこの状況をふまえ、今後、天守およびその周辺地も含めた全体の保存・整備について、方針を定めてゆく予定である。


松前城(まつまえ・じょう/北海道松前町)
松前城(福山城)は、松前湾に面した標高20~40m程の段丘先端部に位置する平山城で、外国船打ち払いを目的とし、幕命により安政元年(1854)に完成。我が国唯一の台場を有す日本式城郭で、前身の福山館は慶長11年(1606)に初代藩主松前慶廣が築城した。

執筆者/前田正憲(松前町教育委員会)

写真提供/松前町教育委員会

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