お城の現場より〜発掘・復元最前線 第5回 【鳥取城】幕末の姿を復元する大手登城路整備

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、鳥取市教育委員会 細田隆博さんに、鳥取城(鳥取県)の大手登城路整備で判明した知見とこれからの整備予定を紹介していただきます。



鳥取城、大手登城路
大手登城路復元整備箇所(写真中央部)

大手登城路を幕末期の姿に復元

鳥取城は、戦国時代の山城を起源とし、江戸時代には国内12番目の規模を誇った鳥取藩32万石の居城として整備された。現在、羽柴秀吉の兵糧攻めに際して築かれた太閤ヶ平とともに国の史跡に指定されている。この内、現在の城跡景観を決定づける近世城郭部分については、特に城の骨格を明瞭化するため、擬宝珠橋(大手橋)、中ノ御門(大手門)、太鼓御門の建物復元を含めた大手登城路の全体的な復元整備が進められている。

鳥取城、大手登城路、復元整備イメージ
大手登城路復元整備イメージ

大手登城路は、近世鳥取城の政庁であったニノ丸、三ノ丸へ至るルートで、象徴的空間であった。しかし、近頃まで三ノ丸跡に立地する県立高校の通用道となっており、その本質的価値を著しく損なっていた。

大手登城路復元整備は、城の正面観を回復し、近世鳥取城の骨格を顕在化するものである。鳥取城跡が近代公園として整備された1923年から100年にあたる2023年頃には大手登城路全体を幕末期の姿に復元する計画である。

鳥取城、擬宝珠橋、二ノ丸三階櫓
在りし日の擬宝珠橋と二ノ丸三階櫓(1879年頃)

発掘された三代の橋の痕跡

現在、その中でも、2018年の完成を目指して擬宝珠橋の復元工事が行われている。擬宝珠橋は、1621年(元和7)、池田光政によって創建されたものである。幾度かの架け替えを経て1897年(明治30)前後頃まで存続した。橋長は36mに及び、鳥取藩32万石の大手橋に相応しいものであった。復元されれば、国の特別史跡または史跡で認められた近世城郭の復元橋としては、国内最長の復元橋となる。

鳥取城、橋脚基底部郡
発掘調査で検出された橋脚基底部群

復元に先立ち、2011年に橋の痕跡を確認する調査を行なった。1963年にコンクリート橋が架けられていたこと、1973年と1974年にブルドーザーを投入し、堀の浚渫が行なわれていたことから、当初は橋の痕跡は残っていないと思われていた。しかし、堀底から江戸時代及び明治時代の計3世代の異なる橋脚の基底部69本が検出された。このうち、復元を目指す擬宝珠橋の橋脚は3本を1橋脚とする7列全てを確認し、復元根拠となる精緻なデータを取得することができた。

鳥取城、擬宝珠橋復元遺構、保護イメージ図
擬宝珠橋復元遺構保護イメージ図

擬宝珠橋、復元完成イメージ図、鳥取城
擬宝珠橋復元完成イメージ図

復元では、発掘調査で確認された全て橋脚を傷つけることないような工法を我が国の復元において初めて採用する。それは、コンクリート橋の橋脚2基と橋台2基の基底部を利用し、検出橋脚の上部を跨ぐようにステンレス製の梁を設けた上で、検出橋脚と同座標上に擬宝珠橋を復元するというものである。これによって検出された橋脚は、水中において永続的に保存することが可能である。また、梁は水面下に設置し景観にも配慮し、さらに、最も木部の腐朽が懸念される水面部は、水中梁と一体となった連結部を立ち上げることとした。これによって、復元橋脚木部が水面部の腐朽を防ぎ、復元橋の耐用年数を飛躍的に向上させる計画である。


鳥取城(とっとり・じょう/鳥取県鳥取市)
鳥取城は、戦国時代「日本にかくれなき名山」に築かれた堅城として知られ、羽柴秀吉の兵糧攻めの舞台となった。江戸時代には姫路城大天守を築いた池田輝政の孫・光政が山麓部を整備し、鳥取城は「姫路城の弟城」とも言われている。

執筆者/細田隆博(鳥取市教育委員会)

写真提供/鳥取市教育委員会

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