2018/07/30
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第4回 【小田原城】徳川将軍家との繋がりを示す御用米曲輪
日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、小田原市文化財課 佐野忠史さんと鈴木一史さんに、小田原城(神奈川県)の御用米曲輪の発掘調査で得られた新たな知見を紹介していただきます。東国の戦国大名の文化についての概念を越えた発見とは?
史跡整備の進展
小田原城では、1983年度から本格的な史跡整備が進められている。江戸時代末期の姿を基本に、当時の正規登城ルート・大手筋に沿って、三の丸の大手門から西に進む形で、1997年度には二の丸の正門に位置する銅(あかがね)門の復元、2008年度には三の丸から二の丸へ向かう途上に位置する馬出門の整備などが行われた。
整備が進む小田原城の様子(2013年3月撮影)
御用米曲輪の発掘調査
江戸時代の小田原城は、徳川将軍家との強い結びつきがあったとされる。それを表す場所の一つが、本丸の北側に隣接する御用米曲輪である。御用米、すなわち江戸幕府のための米を保管する蔵が設けられていたことにその名の由来をもつこの曲輪の存在は、これまでさまざまな絵図や古文書で知られていた。
2010年度から2014年度に行われた発掘調査では、これらの資料に記された、江戸時代の土塁や米蔵跡などだけではなく、戦国時代後期(16世紀中ごろ)の庭園跡が発見された。発見された庭園跡は石組の池跡などで、五輪塔や宝篋印塔の裏の平らな部分を表に用いており、赤い鎌倉石、黒まだらの風祭石、灰色の安山岩である箱根石など、色彩にも配慮したアレンジを行っている。これは、従来言われていた、東国の戦国大名の文化についての概念を越えた発見であり、後北条氏の先進性をあらわすものという評価を得ている。
また、小田原城は、戦国時代から江戸時代にかけて、本丸の北西に位置する八幡山古郭を中心に、同心円状に発展したとされてきた。しかし、御用米曲輪で戦国時代の遺構が発見されたことで、同心円状ではなく、それぞれの場所で重層的な発展を遂げた可能性が指摘されている。
御用米曲輪で発見された江戸時代の米蔵跡(2013年3月撮影)
御用米曲輪で発見された戦国時代の池跡(2014年3月撮影)
今後の史跡整備に向けて
御用米曲輪の調査成果については、概要報告書が刊行されているものの、未だ評価は定まっていない。今後は、発掘調査報告書や史跡の保存活用計画、整備基本設計・実施計画を作成する過程で、発見された戦国期の庭園跡の評価を定め、現在進めている御用米曲輪の整備に反映させていくことになるだろう。
小田原城(おだわら・じょう/神奈川県小田原市)
小田原城は、戦国時代に大森氏が築城したとされる。その後、明応5(1496)年~文亀元(1501)年の間に伊勢宗瑞(北条早雲)が入城し、天正18(1590)年に豊臣秀吉に敗れて開城するまで、後北条氏の関東支配の拠点として栄えた。
江戸時代には大久保氏や稲葉氏などの譜代大名が城主を務め、江戸の西を守る城として幕末まで機能した。
執筆者/佐野忠史・鈴木一史(小田原市文化財課)
写真提供/小田原市文化財課