お城の現場より〜発掘・復元最前線 第3回 【高松城】天守台から見つかった地下一階

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、高松市埋蔵文化財センター 大嶋和則さんに、高松城(香川県)の天守台修復で得られた新たな知見を紹介していただきます。

高松城、内海、天守台
内海を見渡すことができる天守台

地下一階が発見された天守台

高松城では天守台石垣の傷みが著しいことから、2007年から石垣解体修理事業が行われた。天守台上には明治に建築された神社施設が所在したが、その記録保存後に発掘調査がはじまった。調査では天守地下一階が確認され、田の字に配置された礎石も検出された。礎石上面には、土台の設置位置を示すと考えられる線刻や礎石上面の剥離痕・変色等から地下一階の規模が東西6間(約11.82m)であることが判明し、文献の記載が正しいことが確認された。同文献には天守の高さの記載もあることから、高さは13間半(約26.6m)と考えられ、石垣高さを含めると約40m以上もの高さとなる。

高松城、天守台石垣解体修理
天守台石垣解体修理作業。天守台をほぼ全解体し、積み直しを行った

高松城、天守台地下、礎石
天守台地下一階完掘状況。礎石が田の字に並んだ状況を確認した

また、調査では田の字に並んだ礎石の空白部分の4か所には掘立柱が存在し、礎石と掘立柱を併用した建物であったことも判明している。そのうち2か所で直径30㎝余の柱が残存しており、材質はツガで、1630~1660年代に伐採された可能性が高いことが判明している。文献に記載された正保4年(1647)の斧始め、寛文9年(1669)の上棟という天守改築時期とも符合している。さらに、地下一階入口の礎石上及び両袖の石垣側面において門の部材に付けられていた金具によると考えられる錆が確認されており、門の位置や柱の寸法等が判明するなどの成果も得られている。

高松城、天守台、堀立柱、礎石
天守台掘立柱検出状況。礎石と掘立柱を併用した構造であることが判明

天守台の築造時期は慶長期か

地下一階の周囲の石垣上、つまり地上一階部分については、栗石上面で礎石が検出されたほか、礎石抜き取り痕が複数検出されている。これらの成果により、地下一階や地上一階部分の柱位置はほぼ確定できる。

天守台石垣内部の調査では、17世紀前半の遺物が認められたことや、石垣の解体修理が行われた形跡がないことなども確認されている。このため、天守台石垣は天正16年(1588)の築城時ではなく、時代が下る可能性が考えられる。石垣の隅角部が算木積となっていること、生駒家が朝鮮出兵時に採用した家紋「波引車」が石垣石材に用いられていること、城下町のメインストリートとなる丸亀町の整備が慶長15年(1610)であること、城下町の寺院の多くが慶長年間に移転整備されていることなどを合わせて考えると、築城のピークは慶長年間頃と推定でき、天守台もその頃に整備されたものと考えられる。

高松城、天守台、石垣、刻印、生駒家家紋
天守台石垣に刻印された生駒家家紋「波引車」

これらの調査に伴って解体された石材は9000個以上におよんだが、2012年までに積み直しを終えている。現在は地下一階が露出展示され、天守台上には展望デッキが設けられており瀬戸内海を望むことができる。

天守台以外でも2014年に地久櫓台、2016年に桜御門などの石垣解体修理が行われているが、このうち桜御門は1945年の空襲により焼失した櫓門で、三の丸に所在した御殿の正門に当たる。今後、古写真、発掘調査成果等にもとづき門の復元工事が予定されている。

高松城、桜御門
桜御門。国宝に指定されることが決定していたが空襲により焼失。復元予定

この他、2016年には、これまでの史料調査成果等をもとに、「バーチャル高松城」として、天守をはじめ城内の諸建物のCG復元が行われた。無料アプリをダウンロードして、現地を訪れると、スマートフォンやタブレット端末において、かつての高松城の姿を見ることができるサービスが提供されている。


高松城(たまかつ・じょう/香川県高松市)
高松城は天正16年(1588)に生駒親正により築城が開始された城。生駒氏4代の後、寛永19年(1642)に松平賴重が入り、寛文10年(1670)に天守改築、その翌年から曲輪の新造などを行い、幕末まで高松松平家の居城として威容を誇った。

執筆者/大嶋和則
高松市埋蔵文化財センター

写真提供/高松市教育委員会

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