2025/04/07
理文先生のお城がっこう 歴史編 第64回 秀吉の城16(倭城1)
加藤理文先生が小・中学生に向けて、お城のきほんを教えてくれる「お城がっこう」の歴史編。豊臣秀吉が築いたお城の特徴について見ていくシリーズの今回は、朝鮮出兵にあたって秀吉の滞在用に築いた城のうち、壱岐島の最北端に建てられた勝本城についてです。果たしてどのような城だったのか、その歴史とともに見ていきましょう。
天正18年(1590)、小田原北条氏(ほうじょうし)を滅(ほろ)ぼし天下統一(とういつ)を成し遂げた豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、次に明(みん)国を支配(しはい)することを目指すと言って、遠征(えんせい)軍を組織(そしき)しました。遠征軍は、朝鮮(ちょうせん)半島を経由して、明へと攻(せ)め込(こ)む計画を立てたのです。そこで、道筋(みちすじ)に当たる李氏朝鮮(りしちょうせん)(李家が支配した朝鮮のことです)に、秀吉に従(したが)い命令をきくことと、明への道を先に立って案内するよう求めたのです。従わなければ軍隊を派遣(はけん)するとの脅(おど)しが反発を招き、明国までの道を貸(か)してほしいという要求もはねつけられてしまいました。
怒った秀吉は、文禄(ぶんろく)元年(1592)と慶長(けいちょう)2年(1597)の2回にわたり、西国大名を中心に延(の)べ30万人を動員する過去(かこ)に例のない海外派兵(はへい)(朝鮮出兵)を実施(じっし)しました。我(わ)が国では、前者を「文禄の役(ぶんろくのえき)」、後者を「慶長の役(けいちょうのえき)」、併(あわ)せて「朝鮮出兵」「朝鮮侵略(しんりゃく)」と呼(よ)んでいますが、韓国(かんこく)では「壬申倭乱」(じんしんわらん)「丁酉再乱」 (ていゆうさいらん)と呼んでいます。
秀吉の御座所
明国を攻めるための大本営は、松浦(まつうら)半島の肥前名護屋(ひぜんなごや)の地に置かれ、ここに大規模(きぼ)な城が築(きず)かれました。さらに秀吉は自身が朝鮮半島へ渡(わた)り、さらに明へ渡海(とかい)することを考えて、壱岐(いき)に御座所(ござしょ)(秀吉が宿とする城のことです)として勝本城(長崎県壱岐市)の築城(ちくじょう)を命じ、対馬(つしま)に清水山(しみずやま)城、朝鮮半島にも釜山(ぷさん)から平壌(ぴょんやん)まで御座所を準備させたといいます。秀吉が渡海する時に備(そな)えた御座所、兵士(へいし)や武器(ぶき)・食糧(しょくりょう)などの補給品(ほきゅうひん)を送るために築かれた城を「繋(つな)ぎの城」と呼びます。御座所の普請(ふしん)は、黒田官兵衛(くろだかんべえ)がその役目にあたりましたが、半島内での所在(しょざい)場所は1カ所すら解(わか)っていません。

名護屋城天守台から壱岐方面を望む
勝本城の築城
天正19年(1591)、平戸の松浦鎮信(まつうらしげのぶ)に、壱岐島に勝本築城が命じられました。「就今度大明国・高麗御動座、於壱岐国、御座所作事普請之事(後略)」とありますので、秀吉自身が動座(どうざ)(大将(たいしょう)が出陣(しゅつじん)することです)する時のための宿泊(しゅくはく)場所として築かれたことが解ります。築城の命令を受けた松浦鎮信は島原の有馬晴信(ありまはるのぶ)、大村の大村善前(おおむらよしあき)、五島の五島純玄(ごとうすみはる)の手伝役(てつだいやく)の協力を得(え)て、4カ月の月日で勝本城の基礎(きそ)となる石垣(いしがき)を完成させました。
宣教師(せんきょうし)のルイス・フロイスは「彼(秀吉)が朝鮮に渡る際に滞在(たいざい)できる二島(壱岐・対馬)にも、同じく自分のための屋敷(やしき)と宿舎(しゅくしゃ)、および食料用の大型貯蔵庫(おおがたちょぞうこ)の建築を命じた(中略)これらの島は貧(まず)しく、大規模で豪華(ごうか)なための必需品(ひつじゅひん)を欠いていたので、その建築にあたっては、名護屋における以上の困難(こんなん)がともなった」と記録しており、離島(りとう)での築城がいかに大変であったかが窺(うかが)えます。

勝本城本丸跡。本丸の北に稲荷(いなり)神社が祀(まつ)られ珠丸慰霊碑(たままるいれいひ)や河合曽良(かわいそら)の句碑(くひ)「春にわれ乞食やめても筑紫かな」が建てられています。現在は城山公園として整備(せいび)されています
結局、秀吉が実際に使うことはありませんでしたが、完成後は、秀吉の弟である秀長(ひでなが)の家臣・本多俊政(ほんだとしまさ)が500人の手勢(てぜい)とともに慶長3年(1598)までの7年間常駐(じょうちゅう)(常(つね)に持ち場で待機していることです)していたと『壱岐名勝図誌』に記されています。俊政は、兵站基地(へいたんきち)(戦争に際して、武器や食料といった物資(ぶっし)を集めて蓄(たくわ)えておく場所のことです)の責任者として、朝鮮で戦う部隊の食糧・軍馬・武器(ぶき)などの海上輸送(ゆそう)を取り仕切ったのです。秀吉が死去し、朝鮮半島から全軍が撤退(てったい)した段階(だんかい)で廃城(はいじょう)になったと思われます。石垣に残る破城(はじょう)の痕跡は、徳川政権によるものと考えられています。

勝山城展望台(本丸跡に位置)からの眺望
勝本城の構造
城は、壱岐島の北端(ほくたん)、勝本港を見下ろす標高約78.9mの城山山頂(さんちょう)に築かれました。現存(げんぞん)するのは、長径約147m×短径約69mの楕円形(だえんけい)に造成(ぞうせい)された曲輪(くるわ)です。港が見える北側には、枡形虎口(ますがたこぐち)が設(もう)けられていました。この枡形虎口と曲輪の周囲は石垣造りで、曲輪の内部には礎石(そせき)も点在しています。城跡に残る石垣に矢穴(やあな)は認(みと)められず、粗割(あらわ)りした石を積み上げた典型的(てんけいてき)な打込接(うちこみはぎ)石垣で、この時期の特徴(とくちょう)を良く示しています。石垣の出隅(ですみ)部分が崩れているのは、破城によるものです。名護屋城と同じ時期に徳川政権(せいけん)が壊(こわ)したと考えられます。

大手虎口の石垣は粗割りされた石材を積み上げ、隙間(すきま)には丁寧に間詰石(まづめいし)が充填(じゅうてん)された「打込接」の石垣になります。地方独自の石垣ではなく、豊臣系の石垣になります
松浦資料博物館に伝わる2枚の絵図のうち、小図には曲輪内に3棟(むね)の礎石建物(そせきたてもの)が描かれています。東側の2棟はL字に連続する建物で、西側の1棟が独立(どくりつ)しています。おそらく、連続する建物が秀吉のための御座所で、もう1棟が貯蔵庫になると思われます。

大手口に残る「鏡石」。織豊(しょくほう)政権の城は、大手口など最も人目に付きやすい場所に「鏡石」と呼(よ)ばれる巨石(きょせき)を配置することが多く見られます。勝本城でも見ることが出来ます(画像提供:(一社)壱岐市観光連盟)
今日ならったお城の用語(※は再掲)
※繋ぎの城(つなぎのしろ)
2つの重要な地点(例えば本城と支城(しじょう)との間)の中間付近に築いて、両城の連絡(れんらく)を保(たも)つ役目の城のことです。前線への兵站基地であり、時には兵の休憩地(きゅうけいち)ともなりました。「伝えの城」も同意義(どういぎ)です。また、「要害」と「城」も同義で使用します。
※廃城(はいじょう)
城が城として使われなくなることを言います。
※破城(はじょう)
城を取り壊すことです。廃城によって行われる処置(しょち)のひとつで、城割(しろわり)とも呼ばれます。城を移(うつ)したことで前の城を壊すことや、敵(てき)の城を攻め落としたあとに、その城を壊すことも破城になります。和平や休戦の条件(じょうけん)として破城を行なうこともありました。当初は、建物を壊すことでしたが、島原天草一揆(いっき)(1637年)で破城した城が再(さい)利用されたため、石垣まで含(ふく)めて徹底的(てっていてき)に壊すことが行われるようになりました。
※曲輪(くるわ)
城の中で、機能(きのう)や役割(やくわり)に応じて区画された場所のことです。曲輪と呼ぶのはおもに中世段階の城で、近世城郭(じょうかく)では「郭」や「丸」が使用されます。
※枡形虎口(ますがたこぐち)
門の内側や外側に、攻め寄せてくる敵が真っすぐ進めないようにするために設けた方形(四角形)の空いた場所のことです。近世の城では、手前に高麗(こうらい)門、奥に櫓(やぐら)門が造られるようになります。
※矢穴(やあな)
石材を切り出す際(さい)に、石目に沿(そ)ってクサビ(矢)を打ち込(こ)むために掘(ほ)られた方形の穴のことです。この穴にクサビを打ち込んで、石を割っていきました。
※打込接(うちこみはぎ)
石材の角を加工して組み合わせやすくして、隙間に間詰石を詰めた石垣です。最も多く見られる石垣です。
※礎石建物(そせきたてもの)
建造の柱を支(ささ)える土台(基礎(きそ))として、石を用いた建物のことです。柱が直接(ちょくせつ)地面と接していると湿気(しっけ)や食害などで腐食(ふしょく)や老朽化(ろうきゅうか)が早く進むため、それを防(ふせ)ぐために石の上に柱を置きました。初めは寺院建築に用いられ、城に利用されるようになったのは戦国時代の後期になってからのことです。
次回は、「秀吉の城17(倭城2)」です。
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加藤理文(かとうまさふみ)先生

公益財団法人日本城郭協会理事
(こうえきざいだんほうじん にほんじょうかくきょうかい りじ)
毎年、小中学生が応募(おうぼ)する「城の自由研究コンテスト」(公益財団法人日本城郭協会、学研プラス共催)の審査(しんさ)委員長をつとめています。お城エキスポやシンポジウムなどで、わかりやすくお城の話をしたり、お城の案内をしたりしています。
2025年3月まで静岡県の中学校の社会科の教員をしていました。