萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第67回 府内城 海と川を巧みに利用した小藩の海城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。67回目の今回は、府内藩が明治維新まで藩庁を置いた府内城(大分県大分市)です。海上要衝地における築城の歴史と、宗門櫓など現存する建造物の見どころを紹介します。

府内城、堀
大手門(多聞櫓門)前から見る堀

大友氏の旧支配地に福原直高と竹中重利が築城

府内城は、かつて大友氏が拠点としていた大友氏館から1キロほどのところに、豊臣秀吉の家臣であり石田三成の妹婿・福原直高が慶長2年(1597)から築いた城です。直高は、府内には入らず「荷落(におろし)」という地に新たに築城を開始。海上交通の要衝にあり「荷物を落とす」場所であることが荷落の地名の由来ですが、「落」という字は落城を連想させ縁起が悪いため、「荷揚(にあげ)」へと改称されたようです。

築城は福原直高と竹中重利との二時期に大別されます。福原直高は本丸、二の丸、三の丸(武家屋敷)までを整備しましたが、残念ながら完成を見ることなく府内を去っています。慶長6年(1601)に入った竹中重利が、城の大改修と城下町づくりを再開。加藤清正から石工を数十人派遣してもらい、天守を建造するために材木を土佐から集め、大工や瓦師を大坂・伏見から招いたとされます。

三の丸の外側に城下町を整備し、町人や寺院なども旧府内から移転させました。外堀が掘削され、城下町の北西側には商船の出入りする船着場も設置。城と城下町が完成すると、名も府内城と改められました。

府内城、人質櫓
天守台から見る人質櫓

2つの建物が現存、天守台も見どころ

ほぼ高低差のない、海に面した平城です。本丸と二の丸は廊下橋のみでつながり、西方の丸の北側は廊下橋で山里丸と連結。北側は海に守られ、東側は大分川の河口に面していました。本丸と二の丸の北側から東側にかけて帯曲輪が設けられているのがおもしろいところで、大分川の河口に面していた城域を囲うように、北方の砂州中島を基点として人工の堤が築かれていました。西方の丸と山里丸をつないでいた屋根付きの廊下橋が、古絵図に描かれていた大手門の廊下橋を参考に復元されています。

天守は慶長7年(1602)に築かれ、「豊後府内城之絵図」にも立派な四重天守が描かれています。寛保3年(1743)に火災で焼失し、その後は再建されていません。

建物は寛保3年に火災で多くが焼失し、その後の度重なる地震でも失われてしまいました。安政6年(1859)に再建された宗門(しゅうもん)櫓、文久元年(1861)に再建された人質櫓が残っています。宗門櫓は、城外側から見ると1階建ての平櫓に見えますが、城内から見ると二重櫓に見える全国的にも珍しい形状の櫓。櫓台を設けずに地階が設けられており、かつては櫓の北側に石垣がのびて石段が設けられていました。

府内城、宗門櫓
城内側から見た宗門櫓

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。