徳川家康が葬られた久能山東照宮(静岡)はお城だった? 「久能山」の歴史をたどる

2023年NHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公・徳川家康といえば、日光東照宮に祀られているイメージが強いかもしれませんが、遺言により初めは静岡県の久能山に埋葬されました。それが現在の久能山東照宮です。…しかし実は、久能山東照宮はもとはお寺で、さらにお城だったのです。その変遷を城びとアンバサダーの小城小次郎さんが解説します。

徳川家康が最初に葬られた久能山東照宮は、「歴史の山」だった

2023年のNHK大河ドラマ『どうする家康』の主人公は、言うまでもなく徳川家康。いきなり家康没後の話で申し訳ありませんが、元和2年(1616)に世を去った徳川家康は、遺言によりまず久能山(静岡市清水区)に葬られました。遺体は後に日光(栃木県日光市)へと移され、久能山と日光にはそれぞれ徳川家康(東照大権現)をご神体とする「東照宮」が造営されました。日光の東照宮と言えば世界遺産にも登録された豪華絢爛な社殿で有名ですが、久能山の東照宮も本殿、石の間、拝殿が平成22年(2010)に国宝に指定され、負けず劣らずの輝きを放っています。

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日光東照宮(左)と、久能山東照宮(右)

久能山東照宮が鎮座する久能山は、昭和34年(1959)、山そのものが国の史跡に指定されました。史跡名称はずばり、「久能山」。「国指定文化財等データベース」には、以下のような詳細解説(抜粋)が付されています。

「かくの如く著名な久能寺の旧跡として、或は築城史上の好例として、はたまた家康最初の葬地たる由緒をもつ東照宮の鎮座地として、久能山は歴史上価値あるところである。」

今でこそ東照宮以外の何物でもない久能山ですが、ここにはかつて山寺(久能寺)があり、山城(久能山城)があって、それから神社(久能山東照宮)へと変貌していきました。山そのものが史跡指定されているケースはしばしば目にします。例えば続100名城に指定されている石垣山城や小牧山城も、それぞれ史跡名称は「石垣山」と「小牧山」です。
しかし、久能山は利用目的が三段階(山寺、山城、神社)に変化し、その変化そのものに歴史的価値があるとして史跡指定を受けている、全国的に見ても非常に珍しい山と言えます。

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にのまるさんによる城びと投稿画像

久能寺の歴史は、ほぼ仏教伝来時にまで遡る?

「久能寺縁起」には、推古天皇の時代に秦氏の一族である久能忠仁が久能山に一堂を建立したのがその始まりで、奈良時代に行基によって久能寺を号するようになったと記されているそうです。この寺伝をまるごと信じる訳にはいきませんが、静岡市には現在も「賤機(しずはた)」や「羽鳥・服織(はとり)」の地名が残り、古代において機織りを生業とする「秦氏」が多く移り住んだとの伝承を持つ地域です。そのため久能寺が秦氏の一族によって開基されたという説も、それなりに説得力がありそうです。推古天皇の時代と言えば仏教伝来から間もない時期ですよね(推古天皇の父にあたる欽明天皇の時代に仏教が伝来しました)。久能寺の古さが窺えます。

久能寺は現在の静岡市清水区へと移転し、江戸末期には相当衰退していたようですが、明治になって旧幕臣の山岡鉄舟によって再興され、寺号も「鉄舟寺」となって今に至ります。長い歴史の中で由緒ある建物は全て失われましたが、12世紀に作られた「久遠寺経(法華経)」全19巻は国宝に指定されるほどの逸品です(現在は東京国立博物館に寄託)。他にも源義経が愛用していたとされる龍笛「薄墨の笛」など、数々の寺宝を今に伝える古刹です。

では、これほどのお寺を久能山から追いやったのは誰なのでしょうか。駿河を代表する戦国大名と言えば徳川氏か今川氏が思い浮かぶのですが、久能寺を移転させたのは徳川でも今川でもなく、あの武田信玄でした。

武田信玄によって築城された久能山城

武田信玄より前の時代にも、久能寺はちょいちょい戦の舞台に登場しています。代表格は天文5年(1536)に勃発した「花倉の乱」。今川氏輝の死後、跡目を争ったのはともに氏輝の弟にあたる玄広恵探(げんこうえたん)と栴岳承芳(せんがくしょうほう、後の今川義元)。兄弟同士の跡目争いは今川家中を二分する争いとなり、駿府館の栴岳承芳派に対峙すべく玄広恵探派の福島氏等が拠ったのが久能寺だったとか。つまり、お城になる前から久能寺は軍事上の重要拠点として活用されていました。

永禄11年(1568)、戦国大名としての今川氏は瓦解し、いよいよ武田信玄が駿河にやってきます。武田氏の戦略や戦術がまとめられた江戸時代の軍学書「甲陽軍鑑」によれば、信玄が旧今川家臣の庵原弥兵衛なる人物から「籠城に最適の地」との示唆を受けて久能山城の普請を決意したとされています。でも私は、久能寺は地域屈指の古刹であり、これまでにも寺のまま兵員を収容した実績もあったので、弥兵衛はその延長でただ単に「久能寺を間借りすると便利だよ」といった程度の提案を行ったのだと思っています。そうなると「(あの古刹の)久能寺をどかして城を作る」という信玄の決断を聞いて一番仰天したのは庵原弥兵衛その人だったのではないだろうかと、勝手に推測しています。

こうして久能山には久能寺に代わり、純然たる山城(久能山城)が築かれることとなりました。
山城として久能山を見てみると、何しろ四方が急峻な断崖で、とんでもなく要害の地であることがわかります。現在は日本平からロープウェイで久能山にアクセスすることが可能になっていますが、まさしくロープウェイで繋ぎたくなる景観を呈しているからこそロープウェイが存在するわけです(絶景なので一度は乗ってみることをお勧めします)。

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あきつ猫さんによる城びと投稿画像

武田氏のお城となれば、それこそ丸馬出やら横堀やら技巧的な虎口やらが、これでもかというくらいに普請されていそうなイメージがありますが、現在の久能山から「武田の城」らしい雰囲気はあまり感じません。それでもその気になって眺めてみると、神社らしからぬ曲がりくねった参道や段差に、そこはかとなくお城の気配が漂っています。

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赤い城さんによる城びと投稿画像

海側から長い石段(1159段を数え、「いちいちごくろうさん」を意味するのだと伝わります)を登った先に現れる「一の門」の空間は枡形にも見え、他の建物よりも明らかに無骨なこの門こそ久能山城時代から残る「城門」であるとの説も存在するようです。
 
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まるで城門?久能山東照宮一の門

城内(つまり東照宮の境内)には、「勘助井戸」と呼ばれる井戸も残っています。由来はもちろんあの山本勘助。久能山城には武田氏の譜代家臣である今福長閑斎親子が在城していたと伝わり、山本勘助が都合よく久能山城を訪れていたとは思えないのですが、徳川家康を祀る東照宮の中に、武田氏に由来する井戸がその名称とともに残されていること自体が何とも不思議です。

久能山は東照宮が造営された後も軍事上の重要拠点であり続けた?

駿府の歴史は今川氏時代から一足飛びに徳川氏時代へと飛躍しているように感じられますが、厳密には今川氏―武田氏―徳川氏(天正期)―中村氏―徳川氏(慶長・元和期)と続いています。そうした中、久能山城は慶長・元和期までずっと機能していました。最後の城番は榊原康政の甥(兄の子)に当たる榊原照久ですが、面白いことに大坂の陣においても照久は久能山城から一歩も動かぬよう厳命されていました。大坂方が駿府まで攻め入る可能性は皆無に等しかったはずで、家康がどうしてこのような命令を下したのかは謎に包まれています。「もしや久能山には途方もないお宝が眠っていた?」などと考えたくなりますよね(あくまで妄想です)。

東照宮造営後、照久の一族は旗本として代々東照宮の守護を務めています。何しろ徳川四天王の一人である榊原氏の一族をわざわざ指名しているわけですから、それこそ城番のような扱いですよね。もしかしたら久能山は、東照宮が造営された後もずっと軍事上の重要拠点であり続けていたのかもしれません。

執筆・写真/小城小次郎(おぎこじろう)
城びとアンバサダー/9歳で城を始めた「城やり人」/日本城郭検定1級(2016年全国1位)/TV東京系「TVチャンピオン極」ほか出演

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