2022/12/28
日本100名城・続日本100名城のお城 【続日本100名城 芥川山城(芥川城)編】戦国時代末期の特徴が残る!「天下人」三好長慶の居城
2022年11月、大阪府高槻市の芥川山城(芥川城跡)が国の史跡に指定されました。芥川山城は、織田信長の前に「天下人」となった戦国大名・三好長慶の居城。戦国時代末期を代表する山城であり、権力を示す御殿が築かれた特別な城でもあります。山頂に広がる主郭から大阪平野を一望し、天下人に想いを馳せてみてはいかがでしょうか。
「摂津峡」を利用した要害
大阪府北東部に位置する摂津峡は、大小の奇岩や断崖が約4㎞にわたって連続する渓谷です。ホタルやカジカが生息する自然豊かな景勝地でもあり、「大阪みどりの百選」に選ばれています。
芥川を挟み、三好山(右)と中堂山の間に形成された摂津峡
今でこそ、憩いの場として知られる摂津峡ですが、戦国時代には渓谷を利用して堅固な城が築かれました。渓谷を流れる芥川を「天然の水堀」とし、渓谷の東部にそびえる三好山に築かれたのが芥川山城です。
芥川山城は摂津国(大阪府北中部と兵庫県南東部)で最大規模を誇った山城であり、大阪平野と北摂山地が接する要衝に当たります。永正13年(1516)までに、摂津国の守護を務めた細川高国が築きました。この築城にあたっては、300~500人が昼夜を問わず動員されたと伝わっています。
芥川山城の山頂に設置された三好長慶のパネル
この頃、畿内では足利将軍家が分裂し、有力守護の細川家も分裂して争っていました。そして、高国との戦いを制した細川晴元が、高国に代わって芥川山城の城主となります。さらに晴元の家臣であった三好長慶が晴元を追放して、天文22年(1553)から約7年間、芥川山城を居城とします。
戦国時代の防御施設と先駆的な石垣
芥川山城は山頂の主郭(本丸)を中心に郭(曲輪)が展開され、要所に尾根を断ち切った堀切や土塁が設けられています。ほかにも土橋の遺構が見られ、戦国時代の築城術の特徴がよくわかります。
主郭に向かう途中、東側の曲輪群に残る土橋
一方で、「大手」と伝わる谷筋には当時としては珍しい石垣が築かれ、登城者に城主の威厳を見せつけたと考えられています。時の権力者、三好長慶が力を誇示したのでしょうか。
大手の谷筋には石垣が重点的に用いられている
石垣の大部分が崩れてしまっていますが、それでも2m以上の高さが残っています。大きな自然石と粗割石を使い、すき間には小石を詰めて積まれているのが特徴です。付近は傾斜が急ですので、足元にはくれぐれもご注意ください。
主郭から大阪平野を一望
主郭に近づくにつれ、曲輪が連続して現れるようになります。長慶に仕えた松永久秀など、多くの家臣たちが芥川山城に住んだことを物語っており、ここでも戦国時代の築城術を感じられます。
山頂(標高182.69m)に広がる主郭からは、右手(南西側)に大阪市街のビル群、左手(南東側)に高槻市街が見わたせます。
主郭から一望する大阪平野。芥川が、写真中央を手前から奥に流れている
摂津峡を流れる芥川を伝っていくと、芥川山城の出城に使われた可能性が指摘されている、今城塚古墳(国指定史跡、高槻市)があります(上の写真奥)。今城塚古墳は、芥川山城から南西約3.5㎞の位置にあり、6世紀前半に築造された前方後円墳です。
今城塚古墳は総長約350m、総幅約360m。日本最大級の家形埴輪などが発見されている
芥川山城の主郭からふもとにある今城塚古墳を見ると、今城塚古墳を防御施設として利用したくなる気持ちがわかります。
発掘調査で明らかになった御殿建築
芥川山城の主郭で行われた発掘調査によって、当時としては大きな礎石建物の跡が見つかりました。さらに主郭付近の曲輪からは、山城としては珍しく「塼(せん)」と呼ばれるタイルを外壁の基部に並べた塼列建物の跡も見つかっています。
主郭に立つ石碑。石碑の奥で礎石建物の跡が見つかった
こうした発掘調査の結果などにより、主郭には本格的な御殿建築が建ち、豪華な居住空間があったことがわかっています。公家や近隣の実力者を迎えるための御殿が建っていたのです。
ほかにも、大量のかわらけ(土師器皿)、備前焼のすり鉢や甕、美濃焼の皿や椀なども出土。文筆に関わる遺物(硯や灯明皿など)や、茶の湯に関する遺物(天目茶碗や茶臼、風炉など)も見つかっています。
戦国時代の山城は、敵からの攻撃を防ぐことが重要な役割だったため、掘立柱など簡易な造りの建物がほとんどでした。芥川山城での発掘調査の成果は、こうした戦国時代の城郭とは一線を画し、文書の作成や茶の湯など、文化的な活動が行われたことを示しているのです。
織田信長やフロイスらも登城した
三好長慶が芥川山城を居城とした頃、長慶は実力で畿内を支配し始めていました。当時は畿内を指して「天下」を意味することもあったため、長慶は「天下人」と呼ばれます。
主郭に設けられた長慶を祀るほこら
永禄3年(1560)に長慶は飯盛城へ移り、家督を継いだ嫡男の三好義興が芥川山城の城主となります。しかし、永禄7年(1564)に長慶が亡くなると、その4年後に織田信長が足利義昭とともに摂津国を攻め、芥川山城を落城させます。
芥川山城に入城した信長は、天皇の使いを迎えたり、畿内の要人と対面したりしたと記録が残っています。その後、義昭の家臣であった和田惟政が芥川山城の城主となり、家臣の高山飛騨守(高山右近の父)に預けました。
芥川山城の主郭から高槻市街(高槻城)方面を望む
永禄12年(1569)には、宣教師ルイス・フロイスが芥川山城を訪れています。同年、惟政は芥川山城の麓の高槻城へと居城を移し、その後に惟政の子・和田惟長を追放した高山飛騨守・右近父子が高槻城主となると、芥川山城は役割を終えていきます。
芥川山城の登城口までのアクセス
芥川山城への起点となる塚脇停留所
芥川山城へ登城するためには、まずJR高槻駅北口バスターミナルから高槻市営バスに乗り約15分、塚脇停留所で降ります。塚脇停留所の近くには芥川が流れ、芥川の右(東側)にそびえる山こそが三好山です。三好山に向かって、住宅地を通ってじわじわと登りながら登城口を目指します。
登城口までの道路に立つ電柱のプレートには、「城山」「三好山」と記されていますのでお見逃しなく。
塚脇停留所から登城口まで徒歩約15分
登城口から徒歩約20分で主郭まで登城し、遺構や大阪平野のパノラマをじっくりと堪能してください。芥川山城にゆかりの深い三好長慶、松永久秀、織田信長、フロイスの足跡や、戦国時代から安土・桃山時代への時代の転換も味わえるはずです。
足場が悪い箇所もありますので、トレッキングシューズなど安全な靴での登城がおすすめです。
住所:大阪府高槻市大字原
電話:072-674-7652
アクセス:高槻市営バス「塚脇」停留所から徒歩約15分(登城口まで)
※芥川城跡は私有地です。地元の方のご迷惑になるような行為は慎みましょう。
※城内にトイレはありません。
執筆・写真/藪内成基(やぶうちしげき)
国内・海外で1000超の城を訪ね、「城」をテーマに執筆・ガイド。著書『講談社ポケット百科シリーズ 日本の城200』(講談社、2021年)。『小学館版 学習まんが日本の歴史 6~8巻』(小学館、2022年)、『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング、2020年)などで執筆。日本お城サロン(まいまい京都主催)を運営する。
※歴史的事実や城郭情報などは、各市町村など、自治体や城郭が発信している情報(パンフレット、自治体のWEBサイト等)を参考にしています。