戦国10大合戦と城|小和田哲男 第10回 関ヶ原の戦い

戦国時代を代表する数々の合戦において城がどのように関わったか、小和田哲男先生が解説する連載講座「戦国10大合戦と城」。最終回となる第10回のテーマは、徳川家康率いる東軍が、石田三成率いる西軍を破った「関ヶ原の戦い」です。関ヶ原を合戦場とする天下分け目の戦いが幕を開けるまでに、両軍の戦略はどのように変化していったのか? そのポイントとなった城での攻防に注目しながら見ていきましょう。

大垣城籠城戦を考えていた石田三成

慶長5年(1600)9月15日の関ヶ原の戦いは、実際に徳川家康率いる東軍7万4000と、石田三成を中心とする西軍8万4000が美濃の関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)で衝突したのでその名があるが、はじめから関ヶ原が戦場として想定されていたわけではない。

三成は、はじめは伊勢・尾張を防衛ラインと考えていた。それは清洲城(愛知県清須市)の福島正則を取り込むことができると考えていたからである。豊臣恩顧の大名の筆頭ともいえる福島正則が家康に付くとは思ってもみなかったのではなかろうか。

しかし、正則の取り込みに失敗したため、伊勢・尾張から美濃へ防衛ラインを下げざるをえなくなり、そこで三成が選んだのが大垣城(岐阜県大垣市)であった。三成が考えた作戦は、大垣城に籠城しているところを東軍に攻めさせ、そのさらに外側から味方の西軍に攻めさせるというもので、いわゆる「後詰(ごづめ)決戦」である。大垣城の籠城兵と、後詰の兵とで東軍を挟み撃ちにするという構想だった。

その証拠の一つが、大垣城より西に位置する南宮山(岐阜県不破郡垂井町他)の存在である。南宮山の山上には毛利秀元が布陣していた。現在、山上には毛利秀元の陣所が残っており、土塁・竪堀および小さいながら曲輪も認められ、しかも、その曲輪からは大垣城を眼下に臨むことができるのである。逆に、関ヶ原はみえない。

そしてもう一つが松尾山(岐阜県不破郡関ケ原町)の存在である。南宮山の方は俄(にわ)か造りの陣所といったイメージであるが、松尾山の方は松尾山城といってよいしっかりとした城の造りになっている。しかも、戦いの3日前、9月12日付増田長盛宛石田三成書状写(国立公文書館所蔵「古今消息集」)に、三成は、この松尾山城に「中国衆」を入れる予定だと記しているのである。

このあと、実際に松尾山城に入ったのは小早川秀秋であるが、秀秋はこの段階では筑前の大名で「中国衆」ではない。「中国衆」は毛利輝元なので、三成は輝元を関ヶ原まで出陣させる予定だったことがわかる。

玉城本丸
玉城の本丸

それとの関係で、最近、注目されるのが玉城(岐阜県不破郡関ケ原町)の存在である。ここにも、土塁・竪堀、それに広大な曲輪があり、一説には、そこに豊臣秀頼の出馬を仰ぐ作戦だったともいう。しかし、結果的に輝元の出馬はなく、ましてや秀頼の出馬もなかったのである。

岐阜城の陥落で変わる三成の戦略

岐阜城全景
岐阜城全景

大垣城での「後詰決戦」を考えていた三成がもう一人頼りにしていたのが岐阜城(岐阜市)の織田秀信だった。秀信は信長の嫡男信忠の子で、西軍として岐阜城に入っていたのである。

いっぽう、東軍の先鋒福島正則・池田輝政・浅野幸長(よしなが)・黒田長政らは8月14日、正則の居城清洲城に入っていた。20日、先鋒軍だけの軍議が開かれ、織田秀信の岐阜城を攻めることに決まった。そのとき決められた部署は、池田輝政・堀尾忠氏・山内一豊・一柳直盛・浅野幸長らが木曾川上流の河田(こうだ)付近を渡河して攻め込むこと、福島正則・田中吉政・加藤嘉明・細川忠興・藤堂高虎らが萩原・尾越(おこし)付近を渡河して、それぞれ岐阜城に迫るというものであった。

こうして福島正則ら東軍先鋒が3万5000という大軍で8月22日に木曾川を渡り、まず西軍杉浦重勝の守る竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)を落とし、その勢いで岐阜城に向かった。翌23日、いよいよ東軍による岐阜城総攻撃がはじめられ、河瀬左馬助・柏原(かいばら)彦左衛門が守る瑞龍寺山(ずいりょうじやま)砦に浅野幸長・一柳直盛隊が、松田重太夫が守る稲葉山・権現山砦には井伊直政隊が、津田藤三郎が守る惣門大手口には福島正則・細川忠興・京極高知・加藤嘉明隊がほぼ同時に攻めかかり瞬時に落ちている。また、水の手口から攻めかかった池田輝政隊も二の丸から本丸に攻め上り、秀信は降伏し、城下の円徳寺で剃髪し、高野山に逐(お)われた。

三成としては、天嶮の要害岐阜城がたった一日で落とされたことは全くの誤算だった。おそらく、このことが、三成が大垣城での「後詰決戦」をあきらめる一つの契機になったものと思われる。

福束城
現在の福束城址付近

なお、岐阜城陥落前の8月16日には、西軍の丸毛(まるも)兼利の守る福束(ふくつか)城(岐阜県安八郡輪之内町)も落とされており、黒野城(岐阜県岐阜市)の加藤貞泰、菩提山城(岐阜県不破郡垂井町)の竹中重門らは、西軍から東軍に転じている。

三成は家康の「おびき出し作戦」に乗ってしまったのか

三成は14日の午後7時ごろ、自分の妹婿である福原長尭(ながたか)に兵7500をつけて大垣城に残し、自ら、4万の大軍を率いて大垣城を出て関ヶ原に向かった。これまで、一般的には、家康が大垣城を落とすのは時間がかかると考え、わざと、「東軍は三成の佐和山城を抜き、その勢いで大坂城を攻めるそうだ」といううわさを流させ、そのうわさを信じた三成が、「そうはさせじ」と、大垣城を出て、関ヶ原あたりで東軍の前進をくいとめようとしたと理解されてきた。三成が単純に家康の「おびき出し作戦」に乗り、家康の仕懸けた罠(わな)にはまったとするものである。

こうした理解の背景には、それまでの家康の戦歴も関係していた。家康は野戦が得意だが、城攻めは苦手だったとされているからである。では、実際はどうだったのだろうか。

玉城空堀
玉城の空堀

この点で注目されるのが、三成の盟友といわれる大谷吉継の行動である。吉継は大垣城ではなく、すでに9月3日の時点で、関ヶ原より少し西の山中というところに布陣していたことが明らかなのである。これが、現在、史跡となっている大谷吉継の陣所というわけであるが、実は、最近話題となっている玉城も、山中の範囲なのである。つまり、9月3日に山中に入った吉継が、大谷吉継陣所だけでなく、玉城にも手を入れていた可能性も考えられ、ただ、「おびき出し作戦」に三成が乗ってしまったというのではなく、はじめから、中山道の要衝を扼(やく)するという二面作戦だったとみることもできる。このあたり、今後の検討が求められるところである。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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