現存12天守に登閣しよう 【姫路城】第1回 白くなった姫路城

歴史研究家の小和田泰経先生が、現存12天守を一城ずつ解説!初回は「白鷺城」の愛称で親しまれる姫路城(兵庫県)。姫路城はなぜ白い?姫路城解体の危機とは?





平成の大修理

姫路城、大修理後、天守
「平成の大修理」後の天守

平成27年(2015)、姫路城の天守は、5年半におよぶ「平成の大修理」が終わり、真っ白な城に生まれ変わりました。この「平成の大修理」では、主に漆喰壁の塗り替え、屋根瓦の葺き替えが行われています。また、屋根目地(瓦の継ぎ目)にも白漆喰を塗っているため、屋根も白く見えます。

全体的に真っ白になったのは、カビで黒ずんでいた漆喰を塗り直したからです。漆喰とは、焼いた牡蠣の殻を細かく砕いた牡蠣灰を石灰に混ぜた塗料です。姫路城では、築城当初から、色を混ぜない白漆喰で外壁が塗り込められていました。しかし、カビで黒ずんでくるだけでなく、剥離・剥落してくるため、定期的に塗り替えなければなりません。

定期的に漆喰を塗り替えるには、もちろん、多額の費用が必要となります。そのようなわけで、藩財政の悪化から、幕末になると維持もままならなくなりました。明治維新後、姫路城は陸軍の兵営地となり、なんと建物は解体することに決まってしまったのです。

天守のような城の建造物は、明治維新後には、無用の長物となりました。そのため、莫大な費用を投じて修理するよりは、いっそのこと解体してしまうという結論に至ったのです。しかし、陸軍の中村重遠大佐が当時の陸軍トップであった陸軍卿山県有朋に保存を建白し、これで天守は解体をまぬがれました。現在、姫路城の菱の門近くには中村重遠の顕彰碑が残されています。姫路城天守が残ったのは、こうした先人のおかげであることも忘れるわけにはいきません。

顕彰碑
中村大佐の顕彰碑

その後、明治43年(1910)に「明治の大修理」が行われ、昭和6年(1931)に天守は国宝指定されています。さらに昭和31年(1956)からの「昭和の大修理」では、天守の解体修理も行われました。そして、それから50年ほどたった平成21年(2009)から「平成の大修理」が行われたわけです。

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「昭和の大修理」で交換された天守の大柱

白い天守と黒い天守

維持が難しいにもかかわらず漆喰が用いられているのは、耐火にすぐれていることがあげられます。昭和20年(1945)7月3日の姫路大空襲で市街地の半分が焼失してしまいますが、天守は奇跡的に残りました。もし、漆喰で塗り込められていなかったら、どうなっていたかはわかりません。

ちなみに、日本の天守には姫路城のように白い外壁の天守のほか、黒い外壁の天守があります。黒い天守の外壁は、板張で漆や柿渋などを塗ってあるため、風雨に強い反面、耐火に弱いという特徴がありました。

このような外壁の仕上げの相違から、日本には黒い天守と白い天守の2種類が存在することとなり、黒い天守は豊臣系、白い天守は徳川系と言われることもあります。たしかに、豊臣秀吉の大坂城は黒い天守でしたし、徳川家康の江戸城は白い天守でした。ただし、黒い天守には関ヶ原の戦い以前に築かれたものが多く、白い天守には関ヶ原の戦い後に築かれたものが多いことも考えなくてはなりません。豊臣系か徳川系かということではなく、時代の流れであったとみるべきではないでしょうか。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、伏見城など焼失した城もあるため、耐火に適した漆喰が流行したものとも考えられます。姫路城は、徳川家康の娘婿にあたる池田輝政によって慶長6年(1601)から8年がかりで完成しました。

姫路城、池田家、家紋
築城した池田家の家紋


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小和田泰経(おわだやすつね)
静岡英和学院大学講師
歴史研究家
1972年生。國學院大學大学院 文学研究科博士課程後期退学。専門は日本中世史。

著書『家康と茶屋四郎次郎』(静岡新聞社、2007年)
  『戦国合戦史事典 存亡を懸けた戦国864の戦い』(新紀元社、2010年)
  『兵法 勝ち残るための戦略と戦術』(新紀元社、2011年)
  『別冊太陽 歴史ムック〈徹底的に歩く〉織田信長天下布武の足跡』(小和田哲男共著、平凡社、2012年)ほか多数。

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