2022/12/15
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第61回 七尾城 上杉謙信が落とし前田利家が改修!能登畠山氏の巨大山城
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。61回目の今回は、全国屈指の広大な山城として知られる七尾城(石川県七尾市)です。そのスケール満点な構造と見どころを、上杉謙信や前田利家など名だたる武将たちが関わった歴史と合わせて見ていきましょう。
七尾城の石段と石垣
能登畠山氏、169年間の居城
七尾城は、能登守護の能登畠山氏が政治・文化の拠点とした城です。全国屈指の広大な山城で、山麓に点在する小城群を含むと城域は約252.6ヘクタールに及びます。
能登畠山氏は、足利氏の一族で室町幕府の管領職を務めた畠山氏の分家にあたります。畠山満慶(みつのり)が応永15年(1408)に能登守護に就いて以来、満慶の子孫が能登畠山家として能登守護を世襲。以後、上杉謙信に攻め滅ぼされるまでの169年間、能登畠山氏が能登を治めました。
七尾城の見どころは、壮大なスケールです。標高約300メートルの七尾山山頂にある本丸を中心に、二の丸や三の丸、長屋敷などの曲輪が山麓まで無数に連続します。近年の調査で、城域がこれまで把握されていたよりもかなり広範囲に広がり、山全体を一大要塞化していた様子が明らかになりつつあります。複数の砦と連動するように構築された尾根筋の土塁や竪堀を確認。山麓では、城下町の町割と、城外側の防衛線である長大な惣構も見つかっています。
つまり、これだけの広大な山にありながら、「山上の城+山麓の居館と城下町」という分離した構造ではなく、山麓まで一続きで城を形成していたのです。地形の利点を活かしながら、土木工事で厳重な防御ラインを構築。七尾湾をも掌握した一大都市をつくり上げていたようです。
桜馬場北側の石垣
畠山・上杉・前田氏の、情勢に応じて改修
もうひとつの見どころは、本丸周辺の石垣と構造です。七尾城の代名詞ともいえる桜馬場北側の4段の石垣、調度丸前から連なる石段、本丸を囲む数段の石垣、遊佐屋敷や桜馬場を画する石塁など、山頂付近の中心部では、粗割りの石材を積み上げた石垣や石塁がみられます。
石垣を積んだのは畠山氏ではなく、後に七尾城に入った前田利家と考えられます。天正5年(1577)に上杉謙信が陥落させた七尾城には上杉方が入りましたが、天正6年(1578)に謙信が死去し後継者争いが起きると、畠山旧臣は織田信長の支援を受けて上杉勢を追放し、七尾城を信長に明け渡しました。
本丸の櫓台や石垣で固められた外枡形虎口は、利家が改変した可能性が高そうです。ただし、桜馬場の東斜面の石垣は16世紀後半の積み直しが判明しており、畠山氏や上杉氏が石垣を構築した可能性もあるようです。温井屋敷西側には「九尺石」と呼ばれる巨石が据えられた内枡形があり、畠山氏時代のものとも考えられています。
時代の移り変わりの中で、畠山氏、上杉氏、前田氏と、情勢に応じてそれぞれが城に手を入れたのでしょう。こうした変遷が刻まれているのも、能登の中核たる七尾城の大きな魅力です。
九尺石を据えた温井屋敷の内枡形
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。