2017/12/06
戦国武将と城|小和田哲男 <徳川家康と城>第1回 なぜ浜松城に籠城しなかったのか
日本城郭協会理事長 小和田哲男先生による「戦国武将と城」をテーマとした講座。初回は「徳川家康と城」。三方原の戦いで大敗北を喫した家康は、なぜ浜松城に籠城しなかったのか。その真実に迫ります。
三方原の戦いで大敗北を喫した家康
徳川家康公之像(静岡駅)
元亀3年(1572)12月22日、武田信玄が2万5000の大軍を率いて駿河から遠江に侵攻し、家康の居城浜松城に迫った。このとき、家康の家臣はおよそ8000で、それに織田信長からの援軍が3000ほどいたので、合計すると1万1000となる。
よく、「攻者3倍」というが、城攻めのとき、籠城している兵の3倍の軍勢で攻めれば落とせるとされており、1万1000対2万5000では3倍にならないので、守りきれる計算である。ところが、このとき、家康は籠城戦法をとらず、城を飛び出してしまったのである。それはどうしてなのだろうか。
これまで通説のようにいわれてきたのは、若気の至りという解釈である。このとき家康は31歳で、信玄が浜松城を素通りしていったのを見て、カッカして城を飛び出し、信玄が待ちうける三方原に出ていったというのである。
浜松城
通説のもとは『三河物語』か
どうやら、その解釈は大久保彦左衛門忠教が書いた『三河物語』にあるようである。そこには、かいつまんでいうと、家康が「わが屋敷の背戸を踏み切って通ろうとする敵をとがめだてせずに通すことはできない。合戦せずにおくものか」といって飛び出していったとする。
戦いの結果はよく知られているように徳川軍の惨敗で、家康は命からがら浜松城に逃げもどっている。このとき、8000いた家臣の1割にあたる800人を失っているのである。
徳川軍が逃げこんだ浜松城を武田軍が囲んだとき、家康の重臣酒井忠次が城門を開け放たせ、太鼓をたたいたので、武田軍は城内に何かしかけがあると警戒し、撤退していったということで「酒井の太鼓」として知られているが、これは、中国の『三国志演義』に出てくる話の焼き直しで、史実ではない。
織田信長からの密命があったか
では、本当に若気の至りで飛び出してしまったのだろうか。冷静沈着、泰然自若が売りものといってよい家康がそんな軽はずみの行動をするのだろうか疑問である。
家康としては、浜松城で武田軍をくいとめるつもりだったのではなかろうか。おそらく、信長から「武田軍を遠江でくいとめろ」という秘密司令が出ていたものと思われる。
よく知られているように、信長と家康は同盟関係にあった。「清須同盟」として知られている。ふつう、同盟は対等の同盟であるが、この「清須同盟」は、信長が主君、家康が家臣という形の主従関係に近い同盟であった。家康としては、武田軍がそのまま遠江から三河に進み、尾張・美濃に進んでしまった場合、信長から叱責されるのが怖かったものと思われる。
要するに、三方原の戦いは、浜松城に籠城して武田軍の西上をくいとめようと考えた家康の裏をかいた信玄の作戦勝ちだったということになる。
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小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会 理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
『井伊直虎 戦国井伊一族と東国動乱史』(洋泉社、2016)ほか多数