萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第1回 信長と秀吉に仕えた森家の城 美濃金山城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届け! 初回は織田信長と豊臣秀吉に仕えた森家の城、美濃金山城(岐阜県)。石垣に注目すべきその理由とは?

美濃金山城、二の丸、石垣
二の丸西面の石垣。森家が積んだ石垣が、美濃金山城の大きな魅力のひとつだ

信長の技術を共有か?石垣に注目

はじめまして。萩原さちこです。日本100名城と続日本100名城から毎月1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けします。初回は、私が今年もっとも多く訪れた美濃金山城(岐阜県可児市)です。

美濃金山城で注目したいのは、石垣です。というのも、織田信長と豊臣秀吉に仕えた、森一族が積んだ石垣だから。美濃金山城は1565(永禄8)年、信長の美濃攻略において重臣の森可成が城主となり改造した城。可成の没後は子の森長可、成利(蘭丸)、忠政へと引き継がれ、信長政権から秀吉政権への推移の中で改変された経緯があります。

三の丸から主郭南側あたりの石垣を見るたび、私の脳内では宇佐山城(滋賀県大津市)の石垣がリンクします。宇佐山城は1570(元亀元)年、信長の命によって可成が築いたとされる城。信長が取り入れた最先端の石垣築造技術を、重臣の可成はどこまで共有していたのでしょうか。金山城の石垣の多くは長可によるものと思われますが、信長の城づくり、信長家臣の城づくりを探る上でも、美濃金山城はわくわくが止まらない城なのです。

美濃金山城、主郭、木曽川、兼山湊
美濃金山城の主郭から見渡す南西方面。眼下を流れる木曽川沿いには、室町時代から舟航上の最終荷揚港だった兼山湊が残る。戦国時代には森氏により城下町が形成され、おおいに繁栄した

城の変化を感じながら歩こう

出丸の駐車場から本丸までは、徒歩10分ほど。見学ルートはきれいに整備されていますが、山城ですから歩きやすい靴がおすすめです。登城口から三の丸の経て大手枡形を抜けたら、主郭南下から東側を通って主郭へ進みましょう。

石垣に注目する上でのポイントは、場所によって様相が異なること。例えば、二の丸西面の崩れた石垣は、破城(城を破却すること。石垣の隅部を人為的に破壊する)の痕跡。関ヶ原合戦後に美濃金山城は廃城となりますから、そのときに崩されたのでしょう。主郭北側の石垣は、よく見ると右側と左側で積み方が異なります。文禄期に積まれた石垣と、慶長期に改変された際の石垣とみられます。山麓に残る立派な伝米蔵跡の石垣も、おそらく慶長期のものです。

美濃金山城は、古くは斎藤氏の城、その後は信長家臣の城から秀吉政権下の城へ、そして秀吉政権崩落後の森氏の城へと、情勢の変化とともに変貌を遂げたと思われます。石垣の築造年代や改変の痕跡を判別するのはなかなかにマニアックで至難の技ですが、ひとつの城の中にさまざまな時代の城が混在していることが、金山城の魅力のひとつ。五感を研ぎ澄ませて、雰囲気の違いを探してみましょう。

さて、今年何度も美濃金山城を訪れたのは、9月〜10月に行われた主郭地区の発掘調査に調査員として通ったから。発掘調査については、お城EXPO2017内で12月24日(日)にトークショーをさせていただく予定です。体験談を踏まえながらの調査成果や展望のほか、見どころもお話しますよ。ぜひ、ご来城ください。

美濃金山城、山麓、石垣、伝米蔵跡、三の丸の水の手虎口、登城口
山麓に残る、伝米蔵跡の石垣。三の丸の水の手虎口に通じる登城口がある(現在は通行禁止)。慶長期に城が改変されたと思われる

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)など。「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)2018年9月14日発売、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)2018年9月18日発売。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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