2022/11/17
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第60回 八幡山城 山上の城+山腹の居館のセット構造
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。60回目の今回は、豊臣秀吉の甥・秀次が近江に築いた八幡山城(近江八幡城。滋賀県)です。その風情が印象的な八幡堀や、織田・豊臣系の城郭に特徴的な防御構造、さらに圧巻の高石垣など必見の遺構を見ていきましょう。
山麓の八幡堀
情緒ある八幡堀で知られる、羽柴秀次の城
八幡山城は、天正13年(1585)に近江を拝領した羽柴秀次が築いた城です。秀次は天正18年(1590)には八幡山城を離れ、その頃には京極高次が入城。文禄4年(1595)に秀次が自害したのを機に、八幡山城も秀次ゆかりの城として破却されたとみられます。
山上の城と山腹の居館との、セット構造が特徴です。山頂に本丸を中心とした曲輪群を置き、山頂からのびる南東尾根上の曲輪群と南西尾根上の曲輪群が谷部の居館部を挟み込みます。さらに、山麓には八幡堀が蛇行しながらめぐっていました。
八幡堀は、城と城下町を隔てる人工の水路。かつて八幡山の西側には津田内湖、東には大中の湖が広がり、八幡堀は西側は津田内湖から琵琶湖へ抜け、東側は北之庄沢から西の湖へ抜けていました。八幡堀は水運の要だった琵琶湖と城下をつなぐ運河であると同時に、城を守る防衛線でもあったのでしょう。
八幡山城の石垣
高石垣に虎口、秀次館も必見
八幡山ロープウェーの八幡城址駅(山頂駅)を降りたところが、二の丸の一段下。その西側、瑞龍寺のあるところが本丸跡です。曲輪は本丸を中心として放射状にいくつか並び、北に北の丸、西に西の丸、南に二の丸、西の丸の尾根先に出丸が置かれていました。本丸への出入り口は、巨大な内枡形虎口。防御性の高い、織田・豊臣系の城づくりの特徴が見出せます。よく見ると北の丸や西の丸も塁線が屈曲し、単純なようで複雑な構造です。本丸から二の丸へ至る道筋も折れや突出を巧みに取り入れ、設計力が感じられます。
各曲輪を囲む圧巻の高い石垣が見どころです。隅角部の未発達な算木積み、粗割りの石材を直線的に積み上げた反りのない石垣が特徴。転用石も散見できます。京極時代の石垣が混在しているのかもしれませんが、いずれにしても古めかしく趣がある総石垣の城といえるでしょう。
山腹の居館跡も見逃せません。2つの尾根に挟まれた谷部にあり、発掘調査による出土遺物や礎石などの遺構から秀次の居館および家臣団の屋敷跡と推察され、秀次館跡と呼ばれています。まっすぐに伸びる大手道の両側に短冊形の曲輪が配され、家臣団の屋敷が並んでいました。最奥には巨石を用いた石垣で固められた約6000平方メートルの空間がつくり出されており、大手道の突き当たりには巨大な内枡形虎口の石垣があります。
大手道最奥にある枡形虎口の石垣
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。