萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第54回 土浦城 張りめぐる水堀に守られた別名・亀城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。54回目の今回は、室町時代に築かれ、江戸時代に段階的に増改築を繰り返して完成した土浦城。関東地方で唯一現存する櫓門や復元された二重櫓など、見どころをご紹介します。

土浦城、本丸表門
現存する本丸表門

目まぐるしい城主の変化とともに整備

土浦城(茨城県)は、霞ケ浦と桜川によってできた低湿地の微高地を利用して築かれています。霞ケ浦やそこに通じる河川から水を引き入れた、幾重にも張りめぐらされた水堀に守られた平城です。いくつもの堀に囲まれた姿が水に浮かぶ亀のように見えたことから、別名・亀城と呼ばれます。

天正18年(1590)に関東の大部分が徳川家康の領地となると、土浦城とその周辺は結城秀康の所領となりました。関ヶ原の戦い後の結城秀康の越前転封にともない、松平信一が土浦に入封。土浦城や城下町の基盤をつくったのは、松平信一と次代・信吉の時期とみられています。元和3年(1617)に松平信吉が転封となると、西尾氏が土浦城主となり東櫓や西櫓、鐘楼などを整備。慶安2年(1649)から城主となった朽木氏は、本丸櫓門などを改築しました。ほか、松平信興が治めた天和2年(1682)からの5年間に、北門や南門などの整備が行われています。

城主はめまぐるしく変わりましたが、貞享4年(1687)に土屋政直が入封すると、その後は土屋氏が明治まで約200年間治めています。土屋氏が立田郭や外丸御殿を増設し、土浦城を完成させたとみられています。

土屋氏が9万5000石に加増され土浦藩の支配領域が常陸で水戸藩に次ぐ広さを誇るようになると、城とともに城下町も整備され、人々が集まる都市へと発展していったようです。

土浦城、東櫓
内堀越しに見る東櫓

表門は関東唯一の現存櫓門

現在は、本丸と二の丸南側が亀城公園となっています。明治6年(1873)の廃城令の後、城内の建物や土塀はほぼ取り壊されたうえ、本丸を囲む内堀以外の堀は埋め立てられてしまいました。

本丸に復元されている東櫓と西櫓は、土浦城の象徴的だった二重櫓。どちらも西尾氏統治下の元和6〜7年(1620〜1621)頃に築かれたとされます。大きな特徴は土塁の上に建っていることで、古絵図には、本丸を囲む土塁、土塁の上には鉄砲狭間がついた土塀が描かれています。現在、本丸土塁の発掘調査成果や江戸時代の記録に基づいて土塀も復元されています。

本丸表門の櫓門は、関東地方で唯一現存する城の櫓門です。明暦2年(1656)の改築と伝わり、本丸入り口の表門として威容を示しています。裏門にあたる東櫓北側の霞門は、松平信興が城主のときに造営されたもの。内堀にかかる霞橋に通じることから霞門とも呼ばれます。

二の丸東側の二之門跡に建つ前川口門は、武家屋敷と町家の間を仕切っていた高麗門です。明治時代は役場の門、大正時代には等覚寺の山門として使われた後、この場所に移築されています。

土浦城、東櫓
復元された本丸の土塀と東櫓

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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