萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第52回 吉野ヶ里 城の起源、環濠集落

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。52回目の今回は、城の起源とされる弥生時代の「環濠集落」の中でも屈指の規模を誇る吉野ケ里(よしのがり)遺跡。約700年間を通して発展した集落の様子を、復元整備された遺跡を中心に見ていきましょう。弥生時代の人たちはどのように暮らしていたのでしょうか?

吉野ヶ里
南内郭に復元された物見櫓

弥生時代の環濠集落

城の始まりは弥生時代までさかのぼります。社会の変化に伴って城も変わっていきますが、共通していえるのは、軍事施設としての機能があること。それが見られることから、弥生時代の「環濠集落」が城の起源とされています。

環濠集落とは、堀、土塁、柵で囲まれた大規模な集落のことです。弥生時代の中頃から後半になると、防御性の高い大規模な環濠集落が登場しました。

吉野ケ里遺跡(佐賀県神埼郡)は、発展を遂げた大規模な環濠集落の代表例です。発掘調査から、弥生時代前期から弥生時代後期まで、規模を拡大しながら大規模な環濠集落へ発展したことが判明しています。約700年間続いた弥生時代のすべての時期の遺物・遺構が確認され、それぞれの時期の特徴が明らかになっています。

吉野ヶ里、物見櫓、倉と市
南内郭の物見櫓から見る、倉と市

3世紀頃の最盛期を復元

集落を囲む環壕は、推定延長約2.5km。現在は紀元3世紀頃の最盛期の姿が吉野ケ里歴史公園として復元整備されています。そのうち、巨大環壕集落が復元された環壕集落ゾーンがおもな見学スポットです。南内郭、北内郭、中のムラ、南のムラ、北墳丘墓などが復元されています。

南内郭は、集落を支配していた支配者たちの生活空間を再現した区画。物見櫓から南方向に見下ろせる南のムラは、一般の人々が住んでいたと考えられる区域で、西側に広がる倉と市は、クニの倉庫群や市が開かれていた跡です。二重の環壕で囲まれた北内郭は、政治の中心地。復元されている主祭殿は政を行う最重要施設で、内部には指導者が政治を行うようす、最高司祭者である巫女による祈りの儀式が再現されています。

北内郭の北側にある北墳丘墓では甕棺墓が発見され、展示館内に発掘されたままの状態で保存・展示されています。支配者たちと考えられる位の高い人物が埋葬されていたと推定されます。これに対し、北墳丘墓付近や遺跡北方で見つかっている甕棺墓列は一般の人々が埋葬されていたよう。墓からも社会の階層分化を知ることができます。

吉野ヶ里、主祭殿
北内郭に復元された主祭殿

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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