2017/12/13
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第2回 【駿府城】新発見続々!天守台発掘調査
天守台西側の発掘成果
駿府城公園再整備事業を進める中で、天守台跡地の整備方針決定に向けて、地中に残る天守台全体の発掘調査を実施することとなった。2016年から2018年までは天守台全体を、2019年は天守台内側を下層まで掘り進め駿府城築城以前の今川氏時代の遺構を調査する。ここでは、2016年に調査した天守台西側の調査成果を中心に紹介したい。なお、調査記録は現在も整理中である。
2016年は天守台西側の調査が行われた。2017年は区域を東に広げて調査を行っている
堀底から見た天守台の石垣。この状態でも充分な高さだが、往時はさらに高い約19mの石垣がそびえていた
発掘調査の結果として、
①確認できた石垣は、堀底から最大で高さ5.6m、南北方向の長さ約68m(石垣底部で計測)であった。
②南西隅は、比較的大きな石を方形に加工して布目に積む切石であった。
③天守台石垣の構造は、積石層とその内側の裏込層そして最も内側に盛土層という3層構造であることが明らかになった。
発掘作業は人力で行われる。図中で行われているのは地中の様子を調べるための溝、トレンチを掘る作業だ
絵図資料「駿府城御本丸御天守台跡之図」(静岡県立中央図書館蔵)によれば、天守台石垣西辺は長さ約66mであるため、絵図よりもわずかに大きい。なお、絵図によると、石垣の高さは、堀水面から約19mであったという。
石垣の加工は割石を基本としているが、南西隅については切石であった。この石材の加工法や積み方の違いは、石垣の構築時期の差を示すものと考えられる。江戸時代に2度の大地震に伴う修復の記録がある。現時点では積み直しの時期を特定することはできないが、これらの修復の履歴を裏付けるものと言えるだろう。
明かされる天守台の構造
天守台石垣の構造は、築石の裏には裏込石(拳大程の川原石)が充填されており、盛土との間には、裏栗巻石の存在が認められた。また、裏栗巻石と直行する石列が検出された。この石列は、石垣構築時に裏込石の流出を防ぐ役目や、石垣構築時の作業の単位を示す役目が考えられる。現在も分析中であるが、この発見は天守台石垣の構築方法を知る大きな手掛かりとなると思われる。
また、石垣普請工事に参加した全国の大名らが刻んだとされる石垣の刻印は、今回の調査範囲で15か所見つかった。石垣の本来の高さを考えるともっと多くの刻印があったであろう。
天守台北辺の発掘状況。西辺と同様に巨石を用いた打込接で積まれている
この調査で天守台西側一辺を検出したことにより、記録でしか知られていなかった石垣の実際の様子、石垣の正確な規模や構築状況、残存状況の一端を確認することができた。
なお、2017年は小天守があったと推定される天守台南辺から本丸への接続部の石垣、天守台北辺を調査している。今後調査を進めることで、天守台の全容を明らかにしたいと考えている。
出土した瓦。発掘現場からは多数の瓦が出土しており、2016年12月には金箔瓦も発見されている
城プロフィール
駿府城は、静岡平野の中でも標高の高い位置に築かれた平城で、徳川家康が築城した。大御所時代に大修築して築いた天守は江戸時代前期に焼失して天守台だけとなり、天守台は明治時代の廃城後に基底部を残して取り壊され、隣接する本丸堀が埋め立てられた。
執筆者/増山慎
静岡市歴史文化課
写真提供/静岡市歴史文化課