お城の現場より〜発掘・復元最前線 第39回【小机城】畝堀検出されず!?初となった調査の成果を報告

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第39回は、室町時代の関東の戦乱で太田道灌に落とされ、戦国時代に小田原北条氏の手にわたった小机(こづくえ)城(神奈川県横浜市)。今回、初となった小机城の発掘調査の説明会の内容を、お城のジオラマ「城ラマ」を制作する「お城ジオラマ復元堂」の二宮博志さんがご紹介。堀や土塁の位置など、「城ラマ」を使って分かりやすく解説します。

関東の動乱の舞台となった巨大山城

小机城、空堀
小机城の空堀。敵の攻撃に備えて深くえぐられている

2021年12月4日、小机城の発掘調査の説明会が開かれた。

小机城、遠景
小机城遠景

小机城は神奈川県横浜市にある城跡で、標高42m(比高22m)の台地の上に、西郭、つなぎの郭、東郭が配置され、その周りを横堀によって囲まれた構造になっている。

小机城、案内板
小机城の案内板

長尾景春の乱の折、小机城は景春方の城となったため、扇谷上杉の太田道灌(どうかん)によって攻められ落城。その後一時廃城になったと伝わるが、小田原北条氏の手によって武蔵進出の拠点として再整備された。また、早雲以来の宿老で、小机城代を務めた笠原信為を中心に小机城が組織され、さらに早雲四男、幻庵の系統の北条一門が主に城主を務めるなど、小田原北条氏の重要な拠点であった。

現在は小机市民の森として整備され、大都会横浜に立地している割には、堀や土塁の遺構が良好な状態で残っている。

小机城、堀
整備された小机城の堀

西曲輪の西側に第三京浜の工事の際に一部遺構が検出されたものの、十分な調査はされず削り取られてしまっている。その後、本格的な発掘調査はこれまで行われておらず、今回初めて本格的な発掘調査が行われた。当日は横浜市ふるさと歴史財団の方から説明があった。

小机城、発掘調査説明会
横浜市による発掘調査説明会の様子

今回発掘調査が行われた部分は2ヵ所。
①小机城の東郭、現在では二ノ丸広場と呼ばれている場所の南側部分。
②小机城の西郭の北側の堀。

2019年にお城ジオラマ復元堂より発売された小机城のジオラマ(以降、小机城の城ラマと表記)で確認すると、このあたり。

小机城、城ラマ、発掘調査説明会
小机城の城ラマ。堀や土塁、郭などが精巧に再現されている

二ノ丸広場南側で建物跡を発掘

まずは、東郭、現在は二の丸広場と呼ばれている場所の南側。小机城の城ラマでいうとこのあたり。(位置はおおよその位置を示す)

小机城、城ラマ、発掘調査説明会
城ラマの二ノ丸広場南側

調査区は南北15m、東西10mの範囲を設定。

小机城、発掘調査
関東ローム層の赤土と多数の柱穴が検出された調査区

地表面から約60cm掘り下げたところで関東ローム層の赤土が検出され、多数の柱穴が検出された。

ちなみに関東地方では「あるある」の宝永の富士山の噴火による火山灰の体積は、今回の発掘に関してはなんとなかったとのこと。以前畑になっていたので、その利用時に取り除かれたのかもしれない。柱穴は30cmほどのものが主流だが、60cmほどのものもあるそうだ。

柱の堀込は浅いところでも30~40cm、深いものでは70~90cm。柱穴は約1.8m(ほぼ1間)間隔で北東方向を軸に掘っ立て柱の施設があったとみられ、また、柱穴の配列が重なっているので、時代による建物の変遷も考えられるとのこと。

小机城も太田道灌が攻めた時期(文明10年(1478))から北条氏の滅亡の時期(天正18年(1590))まで100年位の期間があるので、当然建物の作り替えも行われているだろう。

小机城、発掘調査
二ノ丸広場南側の調査説明の様子

遺物は、陶磁器や土器の小さな破片が出土したとのことだが、畑として耕された部分からの出土なので、時期が違う可能性もあるとのこと。調査の結果が待たれる。

北空堀の発掘調査で畝堀見つからず…

続いて主郭の北にある北空堀。小机城の城ラマでいうとこのあたり。(こちらもおおよその位置)

小机城、城ラマ、発掘調査説明会
城ラマの北空堀

4.5m四方の調査区では、調査区南で地表から1.7mのあたりで土塁の立ち上がりの関東ローム層の遺構面が検出された。

小机城、土塁の遺構
調査区南で検出された土塁の遺構

調査区北で2.4mのところまで掘りこんだが堀底には到達していないとのこと。

小机城、土塁の遺構
調査区北側の堀

郭側からの堀の角度が約34度。表面がとてもなめらかで調査時に滑ることもしばしばあったとか。こちらも堆積層は曲輪から崩落した土、富士山の火山灰はない。堆積層から中世の瓦や、土器の破片が出土している。

この調査で興味深かったのは堀底のラインが、かなり北側に寄っていると思われること。調査区の北端は、堀の北に位置する土塁にかなり近い場所にあるが、この位置で堀底が検出されていないとなると、主郭側の傾斜は34度でも、その反対側の傾斜はかなりきつい角度ということになる。

小机城、城ラマ、発掘調査説明会
城ラマで再現された西郭を囲む畝堀

この写真の城ラマには、西郭の周りには「畝堀」があった、という設定で作られているが、残念なことに今回の発掘では畝堀の遺構は検出されず。今回の調査区がたまたま畝と畝の間になってしまったのか、それとも畝堀はなかったのか…。

小田原北条氏の城の象徴ともいうべき畝堀が小机城にあれば、小机城の史跡としての価値は大きく向上する可能性があるので、とても期待していたが今回は残念な結果であった。

そして、この堀に関してもうひとつ気になることがある。郭側の堀の傾斜は堀底に向かってさらに急になっているようにも見える。果たして、この堀の正体は!?

小机城、堀
郭側の堀を掘り下げると、堀底に向かって傾斜が急になっている

発掘調査は数年継続する計画はあるようなので、今後の新しい成果に期待したい。

小机城(こづくえじょう/神奈川県横浜市)
永享10年(1438)に勃発した永享の乱の際に関東管領上杉氏の城として築かれたと考えられ、関東管領上杉氏の衰退の契機にもなった文明10年(1478)の長尾景春の乱で、太田道灌に落とされて廃城となる。その後、北条氏綱によって再整備され、家臣の笠原信為が配置されると城下町も整備が進んだ。その後も北条氏が主に城主を務め、小田原北条氏の重要拠点となったが、豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城。現在は小机市民の森として整備され、堀や土塁の遺構が良好な状態で残る。

執筆/城郭復元マイスター二宮博志(にのみやひろし)
東京都出身。小学生の頃よりお城に興味を持つ。以前より城郭全体を表現したモデルがないことに疑問を感じており、地形を含む城郭全体をモデルにしたお城のジオラマ、「城ラマ」をプロデュースし、自らを「城郭復元マイスター」と名乗る。
お城ジオラマ復元堂HP http://joukaku-fukugen.com/
写真提供/二宮博志・横浜市教育委員会

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