2022/02/17
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第51回 長篠城 武田家滅亡の契機、長篠の戦いの舞台
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。51回目の今回は、歴史に残る重要な合戦として知られる「長篠の戦い」の舞台となった長篠城です。天然の地形を巧みに利用した要害の城の見どころを、その高度な防御性に注目しながら見ていきましょう。
牛渕橋から見る長篠城
武田勝頼vs.徳川家康、争奪戦の末に勃発した激戦
天正3年(1575)、徳川家康方の奥平貞昌が籠る長篠城(愛知県新城市)を武田勝頼が攻めた、長篠の戦い。やがて家康の要請を受けた織田信長が出陣し、3万8000の信長・家康連合軍と、1万5000の武田軍が設楽原で激突。敗れた武田氏はこの大敗を機に衰退し、滅亡の一途を辿ることになります。
舞台となった長篠城は東三河地域の平地と山地の境目にあり、遠江方面、美濃方面、伊那方面の各地に通じる街道の分岐点にあります。この地域では、今川氏の没落後、武田信玄・勝頼父子と家康が数年にわたり熾烈な領土争いを展開。長篠城の支配権も、徳川から武田、そして再び徳川へとめまぐるしく交代しました。
寒狭川(豊川)と三輪川(宇連川)の合流点にあり、河川によって削られた河岸段丘を利用して築かれた城です。牛渕橋に立つと、Yの字にぶつかる2つの河川と、深く切り込む渓谷の断崖上に築かれた城を望めます。秘境のような静かな景観からは激戦など連想できませんが、この場所に立てば、2つの河川と断崖に守られた城の強みがよくわかるはずです。わずか500余の籠城側が1万5000の武田軍の猛攻になんとか持ちこたえられたのは、この地形のおかげといえるでしょう。
長篠城の本丸
防御性の高い設計、圧巻の堀と土塁
台地の突端部分には野牛門があり、野牛曲輪が置かれていました。JR飯田線の線路を境に北西側が本丸になり、その境には7メートルの土塁を築いて独立性を高めていたようです。発掘調査によれば、本丸は南西側以外に土塁と堀がめぐり、北側に土橋でつながれた虎口がありました。北側には虎口を経て帯郭、その北側に外堀が置かれていました。
この虎口とセットで、長篠城址史跡保存館のあたりには馬出があったとみられます。断崖地形をうまく利用しながら、平地が続く方向は土塁と堀をめぐらせる、なかなかに防御性にすぐれた設計だったといえそうです。長篠城は徳川方の城となった後に城主の奥平氏によって最終的な改修がされたとみられますが、元亀2年(1571)に徳川方から武田方に帰属した際には、武田氏も手を入れていたようです。
城内をJR飯田線が貫通するなどかなり開発の手が入っているものの、本丸を取り巻く堀と土塁はかなりダイナミックで圧倒されます。本丸からは、武田軍が陣を置いた中山砦、鳶ヶ巣山砦、姥ヶ懐砦などの砦群が遠望できます。長篠城の後は、勝頼が本陣を置いたといわれる医王寺山砦に立ち寄るのもおすすめです。その後は設楽原古戦場へ。戦いの足跡をたどれるのも、長篠城を訪れる楽しみのひとつです。
本丸を取り巻く空堀
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。