お城の現場より〜発掘・復元最前線 第1回 【弘前城】石垣の背面に眠っていた400年の歩み

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、弘前市公園緑地課 今野沙貴子さんによる、弘前城(青森県)の発掘調査の最新情報をお届けします。2013年から継続している発掘調査で明らかになった、石垣の構造とは―。



弘前城、天守
弘前城天守

詳細不明だった明治~大正時代の石垣修理

弘前城本丸東側の石垣が明治時代に崩落し、修理を経て現代にいたっていることは文献の記録から明らかであったが、当時の崩壊・修理範囲等、詳細については長らく不明であった。2013年から継続している本丸東側石垣の解体修理事業に伴う発掘調査では、明治~大正時代に積み直された石垣の構造が明らかになってきている。
今回の修理対象範囲100mのうち、天守台石垣を含む73mほどが明治時代以降に積み直された石垣と判明した。天守台は、天端に大型の石材が敷き詰められており、少なくとも東面9石目までは近代以降の積み直しということがわかっている。本丸東側平場では、積み直された石垣の裏込は幅1m弱と狭く、径20~30㎝の円礫で構成される。背面の盛土は基本的に黄褐色粘土と黒色土の混合土を主としており、内濠側に流れ込むように斜め方向に堆積する。積み直しは、少なくとも天端石から6石目下にまで及ぶ。

弘前城、津軽弘前城之絵図

正保2年(1645)「津軽弘前城之絵図」。本丸東側石垣の中央部には石垣が描かれておらず、「石垣ノ築掛三十八間」と記載される(弘前市立博物館蔵)


弘前城、天守台、石垣、石材、玉砂利

天守台上面の調査状況。明治時代以降の遺物を含む盛土の上に、石垣の築石のような大型の石材が敷き詰められ、石同士の隙間には玉砂利が充填されていた


元禄年間に築き足された石垣か


17世紀半ばの絵図には、本丸東側中央部に石垣のない弘前城が描かれている。慶長の築城時、本丸東側中央の約70mには石垣が築かれず、土羽の状態であった。その約80年後の元禄年間に、4代藩主・信政が布積・打込接の石垣を築き足している。


弘前城、石垣、背面

元禄年間に築き足されたと思われる石垣の背面構造。築石の胴部に割石を詰め、石尻には拳大の円礫を詰める。裏込幅は約1.3

弘前城、石垣、背面、盛土、版築状
元禄年間に築き足されたと思われる石垣の背面盛土は、版築状に堆積する

解体修理範囲北端の約17mの天端石背面に、幅1.3の裏込めを確認したその裏込は、築石の胴部から背後にかけて幅約50㎝に渡り割石(角礫)を詰め、石尻に1020㎝大のやや小ぶりな円礫を詰めた構造をしている。盛土は、黒色土と黒褐色粘土の厚さ2030㎝からなる互層で、版築状に堆積しており、盛土中からは17世紀後半までの遺物しか出土していない状況である。このことから、現段階ではこの範囲を元禄年間に積み足された石垣と想定しているところである。

弘前城、石垣、解体、構造

進む石垣の解体調査。明治~大正時代の石垣を取り除くと、背面に江戸時代の石垣の構造が見えてくる


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城プロフィール

弘前城は、弘前藩初代藩主・津軽為信により築城が計画され、為信が築城着手前に没したため、2代藩主・信枚が慶長16年(1611)に築城・完成させた。当初は「高岡城」と呼ばれ、本丸南西隅に層の天守を構えていたが、寛永4年(1627)に落雷により焼失し、翌5年(1628)に地名が「高岡」から「弘前」へと改められたのに伴い、城の名称も「弘前城」となる。以降、明治維新まで津軽氏の居城として、弘前藩政の中心地として機能した。


執筆者/今野沙貴子

弘前市公園緑地課

写真提供/弘前市公園緑地課

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