お城EXPO 2021 徹底ガイド&レポート お城EXPO 2021 徹底ガイド⑥ テーマ展示「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」徹底解説!

今年は12月18日(土)・19日(日)に開催される、年末恒例のお城イベント「お城EXPO 2021」。お城EXPOで毎年注目を集めているのが、貴重な展示の数々を鑑賞できるテーマ展示です。今年の「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」の展示目的や、鑑賞する前に知っておくといっそう理解が深まる注目ポイントを本企画担当者が解説します。

はじめに

私たちが持つ城郭や戦国武将など歴史に関するイメージは、歴史的事実(史実)と人々が歴史について伝承してきた事柄で構成されていると言えましょう。

史実は古文書や古記録、考古資料、建造物など、各種資料の検討を通じて導き出されるものであり、一方、歴史についての伝承は江戸時代から続く祭礼や民話、絵画、書籍、講談、文楽、歌舞伎、落語をはじめ、現在では小説にマンガやアニメ、時代劇に映画、さらにはゲーム、SNS、武将隊など、さまざまな形態で連綿と続いています。毎年のお城EXPO来城者の皆様を拝見していると、それぞれの興味関心や城郭・史跡めぐりなどの体験に従って、史実に関する各種資料やさまざまな歴史イメージの伝承形態をご自身の中に落とし込んで自由にイメージを組み立てて楽しまれている方が多いように思われます。

豊原国周 太閤記十段目
「豊原国周 太閤記十段目(明治23)」(国立国会図書館蔵)

これまでのお城EXPOのテーマ展示では、城絵図や古文書など史実に関する資料の展示を中心に行ってきました。しかし、昨年のお城EXPO 2020のテーマ展示「城郭の役割ー実用と表象ー」では、津久井城(神奈川県)の城絵図を展示し、(1)同絵図の作成が甲州流軍学の学習の一環として、三増合戦について学ぶために作られたという「史実」に関する側面、(2)津久井城や三増合戦に関する地名や言い伝えなど歴史の「伝承」に関する側面、と2つの側面からのアプローチを行いました。

今回の「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」では昨年の「城郭の役割ー実用と表象ー」をさらに進めて、豊臣秀吉の『太閤記』を題材に、人々が歴史について伝承してきた事柄について考察する展示を行います。

現在の秀吉に関するイメージは、秀吉の生前から現代に至るまでの間に膨大に作られた、彼を題材にした書籍や絵画・演劇などの創作物の影響を大きく受けて形成されました。秀吉や織田信長などのイメージ形成に関する研究は、国文学の井上泰至氏と歴史学の堀新氏との共同研究などによって、この10年ほどの間で研究が進み始めた領域です。また、平成27年(2015)から名古屋市立博物館によって、豊臣秀吉の発給文書およそ7000通を年ごとに編集した『豊臣秀吉文書集』の刊行事業が行われており、秀吉のイメージ形成および歴史的事実の両方の側面からの研究基盤が整いつつあります。

本稿では展示を観るにあたり、展示の構成内容や知っておくとより楽しめる事柄について紹介します。なお、秀吉の一代記である『太閤記』には、現在最も広く流布している小瀬甫庵(おぜほあん)の『太閤記』をはじめ膨大な数が出版されています。「伝承する歴史―豊臣秀吉を中心に―」では、これらを総称したものとして『太閤記』という表記を用いています。

『太閤記』のはじまり

秀吉の伝記『太閤記』はさまざまな要素が合わさって成立しており、そもそものベースとなったのは『天正記』です。秀吉は生前から自らの事績を御伽衆(おとぎしゅう)の大村由己(おおむらゆうこ)に書き留めさせていました。それらは『天正記』と総称されています。

その中に『聚楽行幸記(聚楽第行幸記)』というものがあります。天正16年(1588)4月14日から5日間、後陽成天皇が秀吉の京都での拠点としていた聚楽第に行幸した際の記録です。『聚楽行幸記』は書かれた直後から多くの写本が作成されました。中には秀吉自らが贈ったものもあり、秀吉と天皇の関係を大名など周囲に示す役割がありました。

同時代の公家である吉田兼見(よしだかねみ)が記した日記「兼見卿記」などによると、『天正記』は当時の娯楽であった太平記語りのように人々の前で語られたと記されています。また、秀吉は自らの活躍を題材にした、「太閤能」ともいうべき謡曲を作らせるなど、自らの事績が伝承されることを意識した活動をしていました。
このように大村由己によって記された『天正記』は、後に太田牛一(おおたぎゅういち)や小瀬甫庵などによって書かれた『太閤記』の下敷きにもなり、秀吉のイメージが形成されるベースとなりました。

現在の秀吉に対するイメージが形成される上で大きな影響を与えた『太閤記』は、近世初期の儒学者・医師であった小瀬甫庵が寛永3年(1626)にまとめた本です。甫庵の『太閤記』以前には、織田信長や秀吉・秀次・秀頼に仕えていた太田牛一が『太閤軍記』を記し、それを抄出した『大かうさまのくんきのうち』(「太閤様軍記の内」の意)が慶長15年(1610)頃に作成されました。また、寛永年間初期には和歌山藩士の川角三郎右衛門宗直が『川角太閤記』をまとめました。

いずれの『太閤記』にも共通しているのは、自らの立場や体験や見聞きしたことに影響を受けている点です。牛一の『太閤記』には豊臣秀次の残虐さを強調する記述があり、甫庵の『太閤記』には、牛一の『太閤記』に依りながらも、当時彼が使えていた金沢藩の藩祖である前田利家の活躍が秀吉と関係無く記され、また賤ヶ岳の戦いでの撤退場面では名前が無いなど、前田家に忖度していたと思しき点があります。また、『川角太閤記』は、宗直が元和6年(1620)に柳川藩田中家改易後に和歌山藩に仕官した後に提出した秀吉に関する聞書きが元となり、同7~9年に成立したものです。

ちなみに太田牛一と小瀬甫庵は『信長記(信長公記)』の作者でもあり、牛一の『信長公記』は信長のイメージ形成に大きな影響を及ぼしました。

軍書の刊行

前段の通り、太田牛一・小瀬甫庵・川角三郎右衛門宗直による『太閤記』は慶長~寛永年間初期、すなわち16世紀に成立しました。これらは戦乱の様子を知っている人の自らの経験や、戦乱の経験者を見聞きして書かれたものです。

しかし、『太閤記』に代表される、戦国時代から江戸時代初期にかけての戦の様子や武将の評伝である軍書が数多く作られるようになったのは、17世紀後半以降になります。この時代になると戦の経験者や彼らに直接接した人々がいなくなり、書物を通じて当時の事を知る必要が生じました。

『豊臣秀吉譜』は江戸幕府の儒学者である林羅山と息子の守勝(耕読斎)が、幕府の命令で編纂した『将軍家譜』の一部として寛永19年(1642)に作成された、江戸幕府による秀吉の評伝です。明暦4年(1658)に出版され、人々に読まれるようになりました。

戦国武将や戦に関する興味が持たれるようになったのは、武士の在り方を過去の戦国武将などから学ぶ軍学が武士の教養として学習されるようになったことが背景として存在します。さらにこれらの軍記が娯楽として読まれやすい内容や体裁に整えられて出版されるようになりました。承応3年(1654)に出版された『天正軍記』は、大村由己の『天正記』と太田牛一の『大かうさまのくんきのうち』を抜粋して再編集した内容です。

軍書は18世紀初頭にも数多く作られました。その中で「軍学の学問化」ともいうべき現象が2つ起きました。1つは官僚としての役割が重きをなすようになった武士の教育の一環として、戦国時代から江戸時代初期にかけての武士の行動や言動をまとめた書物が刊行されるようになったことです。代表的なものに、正徳6年(1716)刊行の熊沢淡庵が記した『武将感状記』があります。上杉謙信が武田信玄に塩を送った話や、石田三成と羽柴(豊臣)秀吉との出会いの際の「三献の茶」の話などが含まれています。

2つめは軍学者が史料を蒐集して、それに基づき過去の戦や武将について考証をする書物が作られるようになったことです。この時代までに流布・刊行した数多くの軍書の内容整理や考証を行い、それぞれの興味や関心、事情にしたがって集成した書物が作られました。後者の例として、旗本の根岸直利が記し、彼の息子で考証学者としても知られる木村高敦(きむらたかあつ・古文書や和歌などを蒐集してまとめた徳川家康の一代記「武徳編年集成」で知られる江戸時代中期の旗本)が校訂をした『四戦紀聞』があります。同書は主要な戦として、姉川の戦い・三方ヶ原の戦い・長篠の戦い・長久手の戦いの4つの戦を挙げて詳述しています。秀吉の事績と江戸の考証学が交わる内容であり、大変興味深い資料です。

『太閤記』の拡張

軍学の他にも娯楽としての側面も多分にあることから『太閤記』は広く人々に受容され、書籍以外の領域にも広がっていきました。元禄11年(1698)には古浄瑠璃『太閤記』が刊行され、享保4年(1719)には秀吉を主役とした近松門左衛門作の人形浄瑠璃『本朝三国志』が大坂竹本座で、宝暦9年(1759)には竹田治蔵作の歌舞伎『仮名草子国姓爺実録』が上演されました。さらに18世紀中頃から19世紀初頭にかけて『太閤記』を用いた歌舞伎や人形浄瑠璃が30本以上制作されました。

また、軍書を語る講釈も大きな役割を果たしました。講釈は『太平記』などの軍記や物語を語る芸能で、講談の源流にあたります。室町時代には物語僧が、戦国時代から江戸時代初期にかけては大村由己に代表される大名や武将を相手にする御伽衆など、同様のことを行う人々は存在しました。17世紀末には、『太平記』や軍書を語る太平記読みや講釈師が職業化するほどの人気を集めました。また、和歌山藩初代藩主徳川頼宣に仕えた軍学者で御伽衆の役割も果たした宇佐美定祐(うさみさだすけ)が寛文2年(1662)に書写した『朝鮮征伐記』は、口演を念頭に置いた文体で書かれています。

これらが融合して『太閤記』が講釈の対象となったことは想像に難くなく、『天正軍記 山崎合戦』は『太閤記』の中で羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀と戦った山崎の合戦を講談に仕立てたものと考えられます。

さらに時代が下って江戸時代中期には、実録物と呼ばれる実際に起きた事件や歴史上の出来事を題材としたジャンルが成立しました。特徴として講釈(講談)との関係が深い点が挙げられます。そのためか、講釈師が口演など流布する過程で1つの話にも複数のバリエーションが発生し、膨大な作品が生まれました。『太閤記』もまた多量の作品群が生まれました。『真書太閤記』『太閤真顕記』『重修新書太閤記』は大部として知られており、歌舞伎『大功真顕記』や読本『絵本太閤記』の元となるなど、秀吉のイメージが形成・伝承される上で大きな役割を果たしました。

とはいえ、『太閤記』は不明な点が多く、『真書太閤記』『太閤真顕記』『重修新書太閤記』の3書の関係についても、「『真書太閤記』は『太閤真顕記』を踏まえて成立したとする説」や、「『真書太閤記』は『太閤真顕記』の別名とする説」が存在しています。しかし近年の研究で、最初に①:『真書太閤記』が成立し写本として流布→②:①の過程で『太閤真顕記』が成立し写本として流布→③:嘉永5年(1852)に『真書太閤記』の諸本が数多く流布していたため改訂し『重修真書太閤記』として版本が発行、というプロセスを経ていることが明らかになりました。『太閤真顕記』の成立が安永9年(1780)頃と考えられることから、『真書太閤記』と『太閤真顕記』は秀吉を扱った人形浄瑠璃や歌舞伎が多く作られたのと同時代に成立したと考えられます。

『太閤記』随一のヒット作『絵本太閤記』

『三国志演義』や『西遊記』に代表される、中国語の口語体で書かれた白話(はくわ)小説の影響を受けて、特に寛政期以降に読本というジャンルが流行しました。その特徴は2点で、日本や中国の歴史や古典を題材としつつも、主題を明確にし、人物描写や関連知識を織り込むなど、話の展開や面白さを重視して、かな文字による和文と漢文を書き下した漢文訓読体を混ぜた和漢混淆体で記された点と、巻頭の口絵や文中の挿絵などのビジュアル面に趣向を凝らしている点があります。

寛政9年(1797)刊行の『絵本太閤記』も読本の一つで、戯作者の武内確齋(たけうちかくさい)と浮世絵師の岡田玉山によって『真顕太閤記』を元に秀吉の事績を読本化したものです。

「絵本太閤記」挿絵「木下藤吉郎再び須股の砦を築く」
「絵本太閤記」挿絵「木下藤吉郎再び須股の砦を築く」

内容は、秀吉の母・なかが日吉権現の霊験によって日吉丸(秀吉の幼名)を授かった話や千成瓢箪の馬印の話など、現在に至る数多くの秀吉のイメージが伝承される上での枠組みとなったと言える作品です。挿絵も当時の時代考証を取り入れたものであったと考えられています。

『絵本太閤記』は人々の間で大きな評判を呼び、享和2年(1802)まで続編が作られました。さらには、『絵本太閤記』に関連する錦絵(浮世絵)が出版され、歌舞伎が上演されるなどの大ブームを起こしましたが、文化元年(1804)に幕府によって、『絵本太閤記』や関連書籍・錦絵は発禁処分となりました。

<コラム:『絵本太閤記』や関連書籍・錦絵の発禁処分について>
発禁処分について、江戸時代を代表する狂歌師として知られる太田南畝が記した随筆『半日閑話』には、
「文化元年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰付候趣、大坂板元に被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜き出し錦画に出候分を不残御取上、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、板元を十五貫文過料のよし、絵草子屋への申渡書付有、」
とあります。これは、文化元年(1804)5月16日に『絵本太閤記』が絶版を仰せつけられたということで、大坂の板元(版元)に仰せ渡された。江戸で太閤記の中から抜き出して描いた錦絵を全て取り上げ、これらの錦絵を描いた喜多川歌麿や歌川豊国(初代)は手鎖、板元(版元)は過料15貫文の処分が出されたとのことが、絵草子屋に申し渡された書付がある、という意味になります。幕府による『絵本太閤記』の絶版処分は、当代一流の浮世絵師である歌麿や豊国(初代)が処分され、狂歌師の太田南畝の注目を引くような事態でありました。

この処分に関する文化元年(1804)5月17日に出された町触に、
 「一 一枚絵草双紙類、天正之頃以来之武者等、名前を顕し画候義ハ勿論、紋所合印名前等紛敷認候義も決て致間識候、」
とあり、天正の頃の武者などの名前を出した絵はもちろん、紋所や合印、名前などが紛らわしいものは決して出版してはならない、と書かれています。

また、次の条には、
「一 彩色摺致候絵本双紙等、近来多く相見へ不埒ニ候、以来絵本草紙等は黒斗ニて板行致、彩色を加え候事無用ニ候、」
と、彩色摺をした絵本草紙などがこの頃多く見られ、不埒であるので、今後絵本草紙などは黒で出版すること、彩色を加えてはならない、と書かれています。
この町触には『絵本太閤記』が直接名指しされている訳ではありませんでした。

江戸幕府が享保7年(1722)11月に出された町触に、
「一 人之家筋先祖之事抔を、彼是相違之儀共、新作之書物書顕、世上致流布候儀有之候、右之段自今御停止ニ候、若右之類有之、其子孫より訴出候ニおゐてハ、急度御吟味有之筈ニ候事、」
とあります。おおよそ、人の家筋や先祖の事などについて、色々と相違があることについて新作の書物を書き表し、世間に流布することについて今後禁止する、もしこのようなことが有り、子孫より訴え出ることがあった場合は、必ず裁判するはずである、という意味になります。文化元年(1804)5月17日の町触にある天正の頃以来の武者などに関する一枚絵や草双紙類に関する規制の元になりました。

享保7年(1722)の町触の内容は、寛政2年(1790)5月に出された町触にも、風俗を乱す好色物の規制について触れた後に、
「其外品々享保年中相触候處、いつとなく相ゆるみ、無用之書ところ物作出、令板行、并子供持遊草紙絵本類に至迄、年々無益に手を込め、高直に仕立、甚費成事に候間、前々相触通弥相守、猶又左之趣に可相心得候、」
と、この他については享保年中に町触を出しているものの、規則が大幅に緩んでしまい無用の書物が出版されている点、子供向けの草紙や絵本に至るまで、年々手が込むようになったために高価となっているので、前々の町触を遵守すること、とあり受け継がれていることが分かります。この後には、書籍が手の込んだ内容になっている点を指弾し、新作を作ることを禁じる条項、子供が読むような草双紙や絵本について、古来のことを装って良からぬことを記した本の出版を禁じる条項、根拠のない話やゴシップなどを写本にして貸し出すことを禁じる条項、作者が不明な書物類は商売で取り扱うことを禁止する条項が続きます。

このように、文化元年(1804)5月17日の町触は、享保7年(1722)と寛政2年(1790)の町触を踏まえたものであったことが分かります。

『絵本太閤記』の大ヒットが歌舞伎や錦絵(浮世絵)など他のコンテンツにも波及したことを紹介しましたが、ここでは特に『絵本太閤記』の歌舞伎化について掘り下げます。

同書が発行された2年後の寛政11年(1799)には人形浄瑠璃『絵本太功記』が大坂豊竹座で、翌年にはその歌舞伎版『恵宝太功記』が公演され、いずれも大ヒットとなりました。『絵本大功記』の最大の特徴は、主人公が羽柴秀吉ではなく、本能寺の変で主君の織田信長を討ち、山崎の戦いで秀吉に敗れた明智光秀である点です。設定も、光秀が信長に辱めを受けたことをきっかけに討つことを決めた天正10年(1582)6月1日から、秀吉に敗れた後に小栗栖(おぐるす/おぐりす)の竹薮で落武者狩りによって落命する同13日までを1日1段で描き、そこに「発端」がついた14段構成となっています。

つまり、秀吉一代の事績を題材とした『絵本太閤記』と、秀吉に敗れた光秀の本能寺の変周辺を掘り下げた『絵本大功記』『恵宝太功記』によって、秀吉のイメージだけでなく光秀や信長、本能寺の変のイメージも重ね合わせることができたのです。このような仕組みがあったからこそ、人物だけではなく時代のイメージも併せて伝承されたのかもしれません。

『太閤記』に関連する錦絵(浮世絵)は多く作られました。『太閤記』や秀吉をモチーフにした歌舞伎が制作され、そこから錦絵になるパターンが多く見られます。『太平記英雄伝』とは、嘉永元年(1848)より2年かけて出された豊臣秀吉にゆかりのある武将が描かれた全50枚の武者絵です。作者は浮世絵師の歌川国芳です。題名には『太平記』とありますが、描かれている内容は『太閤記』に登場する武将たちになります。『太閤記』を『太平記』としている理由については、先ほど説明した、文化元年(1804)の江戸幕府による出版統制によるものですが、直接的に名前を出さないことで『太閤記』関連の錦絵が刊行できました。

『太平記英雄伝』の特徴は、個性あふれる表情豊かな武将の描写と、戯作者である柳下亭種員(りゅうかていたねかず)による略伝が合わさることで、錦絵と読本が1枚に合わさったような構成となっている点です。当時は読本が一番格調高いジャンルであったことを踏まえると、この構成は多くの人に手に取ってもらいやすい形態であったかもしれません。

「お城EXPO 2021」展示予定の『太平記英雄伝』は錦絵よりも小さい判型で、しかも綴じた形態をしています。描かれているのも、「阿佐井備前守仲政」(浅井長政)など軍書が書かれている著名な武将もそうでない武将も混ざっています。『豊国名士鑑』もそうですが、『太閤記』を読みながら、登場人物について知るキャラクター紹介本や副読本としての役割を果たしていたと考えられます。

文化元年(1804)の『絵本太閤記』や関連書籍・錦絵が絶版となった後は、具体的な名前や事績を出した『太閤記』関連の書籍や錦絵、歌舞伎、人形浄瑠璃などは憚れるようになりました。それでも出版される事例が散見されました。その代表例として『英傑三国志伝』があります。

同書は、江戸市中の取締りに関する書類を整理・分類した『市中取締類集』の「書物錦絵の部」に「英傑三国誌伝外壱品取計之儀館市右衛門伺調(嘉永三年十月)」という記録に登場します。そこには町年寄が出した「一 英傑三国誌伝 初編壱冊 但、小本彩色絵入一 画本三国誌伝 弐編壱冊 右同断 元大坂町絵双紙渡世 売払人 鉄五郎」とあり、板元(版元)は「大坂北堀江市之側絵双紙渡世綿屋喜兵衛」とあります。著者の記載がないこと、「作意太閤記抜書を通俗三国志ニ見立、全天正時代之武者名前を顕し候画本」で天正頃の武者名等を禁ずる幕府申渡に反するため、板元に差戻しさせるべきかという、町年寄から市中取締掛への問い合わせでした。裁定は『絵本太閤記』ではなく絵双紙に類するため、絵双紙掛に下げ、町年寄伺の趣旨を掛名主に穏便に申し渡す措置とする、というものでした。

天正頃の武者名等を禁ずる幕府の出版統制がある中でも、多くの場合は『太平記英雄伝』のように、『太閤記』を『太平記』とするなど、武将や合戦の名前を当て字や別名にする偽名絵や、別の物事や人物に置き換える見立て絵を用いることで、武者絵や合戦絵の出版を続けました。このような状況であっても『春色梅児誉美』で知られる人情本の大家である戯作者の為永春水が『淫書開好記』という『太閤記』を下敷きにした艶本を書くなど、『太閤記』にはパロディが生まれるほどの人気と知名度がありました。

『太閤記』の絶版処分から約50年後の嘉永2年(1849)から慶応4年(1868)頃にかけて、栗原柳庵が『重修真書太閤記』を刊行します。内容は、『真書太閤記』を、小瀬甫庵の『太閤記』や林羅山・守勝(耕読斎)の『豊臣秀吉譜』、竹中重門の『豊鑑』等の諸本と校訂や内容の変更を行ったものでした。これを追いかけるように、安政4年(1857)から明治17年(1884)にかけて読本『絵本豊臣勲功記』が刊行されました。同書は挿絵のみを集めた本が出されるなど、絵だけでも楽しめるように工夫がなされていました。これらのことからも幕末でも『太閤記』の人気が高かったことがうかがえます。また、今回展示する『絵本太閤記』は文久元年(1861)に刊行されたものです。当資料に捺されている蔵書印には「江州日野内池」とあり、現在の滋賀県日野町の貸本屋が所蔵していました。地方においても『太閤記』を楽しむ人々が多くいたようです。

「絵本太閤記蔵書印」
「絵本太閤記蔵書印」

また、秀吉の子供時代に焦点を当てた『日吉丸誕生記』が慶応3年(1867)に刊行され、この題材を舞台化したものをさらに書籍化した『日吉丸一代記』が明治18年(1885)頃に刊行されるなど、新しい『太閤記』の方向性が模索されていました。

歌川芳虎『小牧山両将軍大合戦之図』
歌川芳虎『小牧山両将軍大合戦之図』明治6年(1873)

年代は不明ですが幕末から明治初期にかけて作られた戦国武将の番付があります。これを見ると、最も格が高い勧進元の位置に『太閤記』と徳川家康の一代記『後風土記』の名前が確認できます。

「番付(後風土記・太閤記)」
「番付(後風土記・太閤記)」

おわりに

『太閤記』の変遷を通じて、秀吉のイメージが形成され伝承される過程を駆け足で紹介しました。「はじめに」でも書きましたが、これらに関する研究は最近になって本格的に始められるようになったものです。城郭や戦国武将など歴史に関するイメージを「伝承」という観点から眺めることで、今までとは別の楽しみ方が得られるかもしれません。本展がそのきっかけになりますと幸いです。

参考文献
 追手門学院大学アジア学科編『秀吉伝説序説と『天正軍記』』和泉書院、2012年
 井上泰至『近世刊行軍書論 教訓・娯楽・考証』、笠間書院、2014年
 井上泰至・堀新編『秀吉の虚像と実像』、笠間書院、2016年
 橋本章『戦国武将英雄譚の誕生』、岩田書院、2016年
 高橋修『戦国合戦図屏風の歴史学』、勉誠出版、2021年
 大石学・時代考証学会編『戦国時代劇メディアの見方・つくり方 戦国イメージと時代考証』、勉誠出版、2021年
 竹内洪介「太閤記物実録三種考:―『真書太閤記』『太閤真顕記』『重修真書太閤記』の成立を辿って―」、日本近世文学会『近世文藝』 113、2021年
 竹内洪介「『聚楽行幸記』諸本考 : 伝本の整理を中心に」、北海道大学国語国文学会『国語国文研究』、156、2021年

執筆/山野井健五
1977年生まれ。2009年成城大学大学院文学研究科博士課程後期単位取得退学、川口市立文化財センター調査員、目黒区めぐろ歴史資料館研究員、東京情報大学非常勤講師を経て、現在、(株)ムラヤマ、お城EXPO実行委員会。専門は日本中世史。主な業績として「中世後期朽木氏における山林課役について」(歴史学会『史潮』新63号、2008年)、「中世後期朽木氏おける関支配の特質」(谷口貢・鈴木明子編『民俗文化の探究-倉石忠彦先生古希記念論文集』岩田書院、2010年)、「戦国時代・武将のイメージ形成過程について」(大石学・時代考証学会編『戦国時代劇メディアの見方・つくり方 戦国イメージと時代考証』、勉誠出版、2021年)。監修として『学研まんが 日本の古典 まんがで読む 平家物語』(学研教育出版、2015年)