2021/10/21
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第47回 春日山城 膨大な曲輪を持つ上杉謙信の居城
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。47回目の今回は、“越後の虎”上杉謙信が拠点に定めた春日山城。山全体を要塞化した、難攻不落の名城の防御力とスケールに注目しましょう。
春日山城の本丸
戦国武将・謙信が出陣し没した城
上杉謙信の居城、春日山城(新潟県)。謙信(長尾景虎)の父である越後守護代・長尾景為が本格的な城へと改修し、天文17年(1548)に春日山城主となった謙信が大規模に拡張・整備して完成させたとみられます。春日山(蜂ヶ峰)の山頂に本丸(実城)を置き、山全体に膨大な数の曲輪を配置。一族の屋敷や重臣の屋敷などを含めた200以上の曲輪を並べ、曲輪間は堀切や土塁を設けて防御力を高めています。
毘沙門堂が建っている尾根筋には、毘沙門堂や護摩堂などが点在していました。謙信は戦いの神として四天王のひとりである軍神・武神の毘沙門天を尊崇し、自らを毘沙門天の転生と信じていたとか。出陣前に護摩堂で戦勝を祈願し、毘沙門堂に籠った後に「毘」の軍旗をはためかせて戦場に赴いたといわれています。
本丸からは日本海や頸城平野、それを取り巻く山並みをも一望できます。眼下に見える柏崎、寺泊、直江津などの港は謙信時代に直轄領とされ、出入りする船に課せられた関税が国を潤す財源となっていました。苧麻の栽培を推奨し、青芋で織られた越後布はやがて京に運ばれました。
たくさんの曲輪が並ぶ
山麓にも見どころが
周囲5〜6キロの範囲内には半径2キロ前後の間隔で無数の砦が置かれ、それぞれが春日山城と緻密に連携していたと考えられています。これらの砦群を含めて、春日山城は成立していたようです。
春日山城から1.5キロほど北東に築かれた、東城砦もそのひとつ。永禄年間から天正年間にかけて構築されたとみられ、春日山城東方前面の防備を担う砦であるとともに、御館(新潟県上越市)とを結ぶ玄関口となっていたようです。小規模ながら、土塁や堀切も残ります。一角は春日山城史跡広場になっており、春日山城を囲む全長1.2キロに及ぶ総構の堀と土塁、監物堀の一部が復元されています。上杉氏時代ではなく堀氏時代のもので、家老の堀直政(監物)によって造られたと考えられます。
御館は、謙信が急逝後に勃発した内乱「御館の乱」で、上杉景虎が籠城した場所。現在は小さな御館公園があるのみですが、かつてはかなり大規模で、二重の堀に囲まれた城塞化された館でした。中心の郭となる主郭だけでも公園の約6倍の面積があり、主郭を囲む堀の周囲にはいくつもの曲輪が並ぶ構造だったと推定されています。
本丸からの眺望
▶「萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜」その他の記事はこちら
執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。