お城の現場より〜発掘・復元最前線 第33回【平戸城】宿泊施設に生まれ変わった懐柔櫓

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第33回は、新しいお城の楽しみ方である「城泊」がはじまった、長崎県平戸市の平戸城。宿泊施設に改修された懐柔櫓の発掘調査で得られた知見を平戸市文化交流課の前田秀人さんと小松義博さんが紹介します。

平戸城、城泊
懐柔櫓はラグジュアリーな内装に改修され、「城泊」施設として使用されている

半島を城郭化した平戸藩の政庁

平戸城(長崎県平戸市)は慶長4年(1599)に近世城郭として築城がはじめられたと伝えられる、平戸港を望む海に突き出した半島全体を城郭。しかしながら慶長18年(1613)に一端焼失する。藩主自らの失火によるものとの風聞があったことが、イギリス船司令官セーリスの日記などにも見られるが、詳しい原因は不明である。

平戸城
南東方向から見た平戸城

その後約1世紀、平戸藩は城を持たなかったが、1703年、幕府に再築願を申請し許可を得たことから、1704年に再建に着手、14年後の1718年に完成する。再築に際しては、焼失前の縄張りを土台としながら、山鹿流の思想を取り入れながら設計されたと考えられ、石垣の改修、虎口の増設、また、城域内の各郭を改修し、焼失前と同様、半島全体を城郭としている。

平戸城はその地形的特徴から三方を海に囲まれており、大手道には堀切を設けている。主体部は主郭、二之郭を中心として周囲に外郭を配する、いわゆる悌郭式の構造を呈している。なお、主郭、二之郭は丁寧な整地が施されているが、その他の郭は地形に沿った削平空間となっており、中世的な要素を残している。

城内は6つの櫓を中心とした構造物、櫓門などが設置され、重要な虎口には枡形虎口を採用するなどの特徴が見える。また、石垣は算木積、一部切込みハギも見られるが、ほとんどは野面積を基本としている。なお、再築前と再築後の石積の相違が認められる。

平戸城、懐柔櫓
懐柔櫓の外観

明治になり廃城、破却され今日に至るが、城郭全体の縄張りは破却前の姿を良好にとどめている。

地中から検出された慶長期の石垣

近年は、全国的にも注目された城泊事業の最も重要な宿泊施設として改装した、鉄筋コンクリート造の復元建物である懐柔櫓周辺の調査を行っており、建物の後方を調査した際に、石垣の基礎部分や裏込めが現在の地表面から2mほど下層より検出されている。現存する「日の岳城絵図」や江戸時代末期に描かれた絵図面と位置が重なっており、時期としては日之嶽城築城時の慶長期の石垣と考えられる。

平戸城、懐柔櫓、発掘
懐柔櫓裏の発掘状況

また、その土中には、大量の漆喰が混入しており、軒瓦や丸瓦などが出土している。最近まで、平戸城周辺は木々が繫茂し、石垣を覆い隠すような状態であったが、改修に併せた木々の剪定を含む環境整備によって、離れた場所からでも石垣を見ることができるようになっている。

平戸城、懐柔櫓、発掘、瓦
懐柔櫓から発掘された瓦の様子

リニューアルオープンした天守閣では築城や城の成り立ちについての解説を行っている。また平戸城より眼前に広がる市街地は、かつての城下町であり、1893年に平戸藩主であった松浦家の私邸として建てられた「鶴ヶ峰邸」と呼ばれた建物が松浦史料博物館として現存している。中世より代々、平戸を治めた松浦家の歴代当主・藩主が残した3万点以上の史料には、先ほどの絵図面を含めた数多くのものが残されており、平戸城に関連するものも多くある。平戸城を訪れた際は、ぜひ、これらの施設も併せてご覧いただきたい。

平戸城(ひらどじょう/長崎県平戸市)
平安時代に活躍した松浦党の流れを汲む松浦鎮信(法印)によって築かれた。完成間近で焼失するが、平戸藩5代目藩主棟(たかし)によって再建される。江戸時代からの現存建物に狸櫓・北虎口門がある他、天守閣・見奏櫓などが復興され、往時の威容を偲ぶことが出来る。

執筆/前田秀人・小松義博(平戸市文化交流課)
写真提供/平戸市観光課

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