2021/03/04
PR 今年は甲冑着用のツアーも開催! 毛利元就郡山城入城500年記念事業がついに出陣!
「三本の矢」の教えで知られる戦国時代有数の戦国大名・毛利元就。実は、今年2021年は毛利元就没後450年、2年後の2023年は毛利元就が居城の郡山城に入城して500年のメモリアルイヤーを迎えることをご存知でしょうか? 3月からは3年間にわたる「毛利元就郡山城入城500年記念事業」が始動。記念事業の顔となるロゴマークの一般公募からはじまり、全員甲冑を着用しての郡山城ツアーなど、各種イベントや企画が続々と発表されています! 今回は、毛利元就とはいったいどんな戦国武将だったのかをはじめ、「毛利元就郡山城入城500年記念事業」についてご紹介します。
中国地方を平定した戦国屈指の実力者・毛利元就とは?
戦国時代を代表する戦国大名、毛利元就。当時有力勢力であった大内氏と尼子(あまご)氏に挟まれながら、巧みな調略を用いて安芸(広島県)の盟主となり、毛利氏を一代で西日本最大の戦国大名へと押し上げた人物です。小領主から戦国大名に成長した実力はいうまでもなく、本拠地とした郡山城は大小270もの曲輪をそなえた戦国時代屈指の巨大な山城。「三本の矢」の教えに例えられる、孫の毛利輝元を中心に、次男の吉川元春、三男の小早川隆景が支える「毛利両川体制」を作り、毛利氏がさらに勢力をのばしていくための指針を示しました。
郡山城南麓に立つ「三矢の訓跡碑」
毛利氏はのちに明治維新に大きく影響を及ぼすなど、毛利元就が残した遺産は広島県のみならず日本史上にも関わり、現在も家族の在り方や経営者に大きな影響を与えています。ちなみに、サッカーJリーグのサンフレッチェ広島は、日本語の「三」とイタリア語の「フレッチェ(矢)」をあわせて名づけられています。
複数の郭をつなぐ郡山城御蔵屋敷跡。幕命により江戸初期に崩された石垣がそのまま残る
もともと安芸毛利氏は鎌倉幕府を開いた源頼朝に仕えた重臣、大江広元の子孫が毛利姓を名乗り、南北朝期に現在の安芸高田市吉田町の周辺に移住したことから始まったとされています。戦国初期には、安芸国吉田荘の一帯を支配する国人と呼ばれる小領主に過ぎませんでした。また、実は元就は次男であったため家督を継ぐ予定はありませんでした。
しかし、毛利元就の人生の中できわめて重要なことが起こります。
実兄の興元と、甥の幸松丸が相次いで病死し、大永3(1523)年に思いがけず家督を継ぐことになり、本拠地の郡山城主となったのです。元就は当時27歳でした。
郡山城で尼子氏に勝利し、戦国大名へ成長する
郡山南西麓の大通院谷川砂防公園にある日本百名城記念碑
大永3(1523)年に毛利元就が郡山城主となった頃、中国地方では大内氏と尼子氏が覇権を争い、両者のどちらにつくかが、毛利氏をはじめとする小領主にとって死活問題でした。
郡山城全景
そのような状況下で、当初は尼子方であった毛利氏は間もなく大内方に転じ、元就は尼子氏の大軍を郡山城で迎え撃つことになりました。これが、天文9(1540)年から始まる郡山合戦と呼ばれる戦いで、山陰地方に大勢力をもつ尼子氏との4か月もの戦いの末に大内氏の援軍の加勢もあり尼子軍を撃退します。この戦いで毛利元就の武名が広がり、さらに勢力を拡大していきます。
郡山合戦は、大内氏と尼子氏に囲まれる小領主から、戦国大名へと成長した毛利元就にとって飛躍のきっかけとなりました。
尼子軍が布陣した青山城(左)と光井山城(右)
さらに、三男の隆景を瀬戸内海に強力な水軍をもつ小早川氏に、次男の元春を安芸・石見地方に影響力のあった吉川氏へ養子として送り込み、山陽と山陰に地盤を固めていきました。
その後、有力大名・大内義隆が家臣の陶晴賢に殺害されるクーデターが起きると、大内氏の勢力を切り崩し、弘治元年(1555年)には厳島の戦いで陶晴賢を破ります。さらに永禄9年(1566年)には難攻不落と呼ばれた月山富田城を攻略して尼子氏を降伏させ、西日本屈指の戦国大名へと成長しました。
郡山城の西麓に建てられた「毛利元就墓所」
激動の戦国時代を生きるため、毛利元就が長男・隆元、次男・元春、三男・隆景に与えた教訓が、「一本のなら簡単に折れてしまいますが、三本束ねれば簡単には折ることはできません。三本の矢のように三人が力を合わせれば毛利は安泰なのだ」いう有名な逸話「三矢の訓」です。この話自体はのちの江戸時代に作られたものですが、毛利元就が毛利家存続のために三子に与えた書状(教訓状)がもとになっています。
毛利元就は元亀2年(1571)に亡くなるまで、郡山城を本拠地しました。
嫡男の隆元が41歳で亡くなるという悲運にも見舞われましたが、元就が作った隆元の子・幸鶴丸(のちの毛利輝元)を中心として吉川元春と小早川隆景が支える「毛利両川体制」により、元就の死後も毛利氏は成長していきました。
城内の案内版にも三本の矢が使われ、毛利愛を感じる
郡山城を訪ねたことがある方は、城内の随所に散りばめられた毛利家にちなんだデザインが記憶に刻まれている方も多いのではないでしょうか。例えば、城内の案内標識の矢印には「三本の矢」が使われており、登城に疲れた身体を奮い立たせてくれます。また、郡山城の南面に設けられた展望台には、巨大な毛利家の家紋「一に三つ星」が掲げられています。
展望台を振り返ると毛利家の家紋が掲げられている
2023年は「毛利元就 郡山城入城500年記念」の年!毛利愛たっぷりのロゴマーク募集中!
毛利元就が毛利家の家督を継ぎ、郡山城の城主となったのが、大永3(1523)年。令和5(2023)年にはちょうど500年を迎えます。この歴史的節目を目前にして、毛利元就の業績をはじめとする安芸高田の歴史を見直し発信する「毛利元就 郡山城入城500年記念事業」(https://motonari500th.jp/)として、さまざまな企画やイベントが計画されています。
その第一弾として、「毛利元就 郡山城入城500年記念事業」では、記念事業で用いるロゴマークを一般公募しています。応募対象は、プロ・アマ問わないそうなので、「我こそは!」と毛利愛をロゴに込めてチャレンジしてみるのはいかがでしょうか? 締め切りが2021年3月5日までと募集期間が短いので、先手必勝で参加するとチャンスがあるはずです!
最優秀賞には表彰や賞金も用意されていますし、何より「毛利元就の没後450周年、郡山城入城500周年」の機会は二度とめぐってきません!毛利元就と直接関われる千載一遇の好機到来ですので、奮っての応募をおすすめします。
↓ロゴマークの応募詳細はコチラをチェック
郡山城入城500年記念事業公式サイト https://motonari500th.jp/
歴史ファン夢のツアー! 甲冑を着て、いざ郡山城へ! 毛利元就尽くしのプレミアムツアー開催!
さらに、毛利元就尽くしのプレミアムツアーの募集が2月22日に開始されました。おだやかな気候の2021年3月28日(1日限定!)に、「毛利元就 郡山城入城500年タイムスリップの旅~春の陣~」として、なんと甲冑姿で郡山城へ登城するほか、毛利元就ゆかりの地を散策します。安芸高田市歴史民俗資料館にて歴史講座のあとは、2020年6月にオープンしたばかりの「道の駅三矢の里あきたかた」で買い物が楽しめます。
ツアー料金には、標準装備の甲冑の着用も含まれています。オプション(有料)甲冑もあり、「毛利元就」、「毛利隆元」、「吉川元春」、「小早川隆景」、「重臣」の甲冑を選ぶことができるほか、サプライズ演出も用意されているとか(※)
甲冑の着用に耐えられるのか心配の方もいるかと思いますが、ご安心ください。軽装備の「旗持ち」か重装備の「槍衆」の甲冑を選ぶことができます。せっかく参加するなら、より派手な衣装を!という方には、追加料金(オプション)での対応で「毛利元就」や「毛利隆元」、「吉川元春」、「小早川隆景」、「重臣」の甲冑を選ぶことができます!(※)追加料金(オプション)での参加の場合には、普段体験できないサプライズ演出が準備されているそうです。どんなサプライズがあるのか、楽しみですね!
※「毛利元就」、「毛利隆元」、「吉川元春」、「小早川隆景」の甲冑は予約が埋まりました(3月3日現在)
昼食へのこだわりにも注目です。戦国時代に毛利元就が山口の大内氏にもてなした饗応食(宴会料理)のメニューを、史料を元に県立広島大学との共同研究により、可能な限り忠実に復元したレシピから構成したオリジナル弁当がいただけます。味付けも当時の調味料など、学術的な考証が加味されています。
(※現在では一般的に食されない食材については、代替え食材で対応。)
安芸高田市歴史民俗博物館には、毛利元就に関する史料が多く所蔵されている。写真左:郡山城中心一円図、写真右:毛利元就自筆書状 吉川元春宛(転載禁止)
さらに、ツアー参加者限定の学芸員講座も開催されます!安芸高田市教育委員会 秋本哲治氏による「毛利氏当主の菩提寺と墓所の謎」と題した、30分程度の講座が予定されていますので、毛利家に関する理解が深まること間違いなし!講座の後には常設展の解説もあり、歴史ファンにはたまらない豪華な内容です!
ちなみに、ツアーでめぐる毛利元就ゆかりの地は以下の通りです。
「毛利元就 郡山城入城500年タイムスリップの旅~春の陣~」コース内容
三矢の訓碑:これを見ないと始まらない!有名な毛利元就の「三矢の訓」が刻まれています。
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清神社:戦国時代には毛利氏に篤く信仰されました。歴代の毛利氏の当主名が記されている棟札(県重文、写真左)など、毛利氏ゆかりの宝物を多数伝えています。また戦国時代には毛利元就が必勝祈願に訪れ、現在ではJリーグのサンフレッチェ広島の祈願祭(写真右)が毎年行われています。
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郡山城本丸:毛利元就が築いた戦国屈指の名城へいざ!
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毛利一族墓所:安芸毛利氏初代当主・毛利時親以来、歴代当主の墓や一族の墓が並んでいます。
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毛利元就墓所:毛利元就が亡くなった新暦の7月16日には、毎年墓前祭が行われます。
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百万一心碑:毛利元就が郡山城の改築の際に、「日を一つにして、力を一つにして、心を一つにして事を行うこと」を伝えたという伝説を生んだ言葉が刻まれています。
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安芸高田市歴史民俗博物館:毛利元就に関する史料の多さは国内屈指!元就の当時の書状は必見です。
2021年は毛利元就没後450年。命日7月16日に墓前祭を予定!
今年2021年は、毛利元就が亡くなってから450年に当たります。
郡山城のふもとには「毛利元就墓所」と「毛利一族墓所」がたたずんでいます。元々は毛利元就の菩提寺として、元亀3年(1572)、毛利輝元が郡山城内に開基した洞春(とうしゅん)寺の跡。明治2年(1869)に、郡山城内や城下にあった毛利一族の墓を集め、この地に移葬されました。現在も、毛利元就が亡くなった新暦の7月16日には墓前祭が行われています。
「毛利元就墓所」では、毎年、墓前祭が行われている
2021年7月16日には没後450年の記念となる墓前祭が予定されています。それ以後のイベントの発表はこれからですが、どのようなイベントが開催されるか楽しみですね!
毎年5月5日に行われる清神社の例祭「吉田の市入祭」。だんじり屋台の子供歌舞伎で「郡山懐古 三矢の訓~清大社 出会いの場~」などの演目が披露される
「毛利元就 郡山城入城500年記念事業」は、2023年12月まで開催されます。今回ご紹介したロゴ募集やツアーイベントのほかにも、さまざまなイベントを企画しているとのこと。詳細は順次発表される予定なので、公式サイト「毛利元就 郡山城入城500年記念事業」(https://motonari500th.jp/)をぜひチェックしてください!
「毛利元就 郡山城入城500年記念事業」概要
郡山城のある安芸高田市では、毛利元就没後450年にあたる令和3年(2021)から令和5年(2023)までの3年間に、本市及び関係団体による「安芸高田市三矢の訓連携協議会」を中心に記念事業を開催し、市内外へ情報発信するとともに、安芸高田市の歴史文化を見つめ直す機会とします。
【開催期間】令和3年(2021)3月~令和5年(2023)12月
【節目の年】令和3年 毛利元就 没後 450年
令和5年 毛利元就 郡山城入城 500年、毛利隆元 生誕 500年
【実施主体】安芸高田市三矢の訓連携協議会
【構成団体】安芸高田市、安芸高田市教育委員会、安芸高田市観光協会、安芸高田市商工会、郡山城史跡ガイド協会
執筆・画像:藪内成基 画像提供:安芸高田市三矢の訓連携協議会
国内・海外で年間100以上の城を訪ね、「城と旅」をテーマに執筆・撮影。『地図で旅する! 日本の名城』(JTBパブリッシング)や『親子でめぐる!御城印さんぽ』(青春出版社)などを執筆。城めぐりツアー(クラブツーリズム)の監修・ガイドを務める。