明智光秀とその周辺|小和田哲男 第11回 「明智光秀家中軍法」を読み解く

本能寺の変で織田信長を討った武将として知られ、2020年・2021年放送のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』では主人公として描かれた明智光秀。連載講座「明智光秀とその周辺」では、ドラマの時代考証を担当される小和田哲男先生が、光秀の生涯に影響を与えた人々や出来事に全12回でスポットライトを当てていきます。第11回は、光秀が定めた「明智光秀家中軍法」。光秀は従軍する家臣に対してどれぐらいの軍役を要求し、またどんな軍律によって統制を取っていたのでしょうか?(※2021年2月24日初回公開)

織田家中唯一の軍役基準規定

光秀を祭神として祀る京都府福知山市の御霊(ごりょう)神社に「明智光秀家中軍法」といわれる珍しい文書が所蔵されている。本来の表題は「定 条々」で、前半の7ヵ条は軍法、後半の11ヵ条は軍役(ぐんやく)賦課基準について書かれたものである。軍法についてはあとで触れるとして、軍役基準規定に関してみておきたい。

封建制的主従関係は、よくいわれるように「御恩と奉公」の関係である。主君から与えられる御恩、すなわち知行に対し、それにみあう奉公をつとめなければならない。その奉公の主なものが戦国時代にあっては軍役だった。つまり、主君から何石もらっていれば、戦いのとき、何人の家臣を連れて出ていくかが決められていたのである。

明智光秀、御霊神社
光秀を祀った御霊神社。「明智光秀家中軍法」や光秀直筆の書状が所蔵されている

それをはっきりした形であらわしているのが着到状(ちゃくとうじょう)で、知行石高(石高以前は貫高)を記し、何人の家臣で出陣すべきかを示したもので、武田氏や北条氏にはこの着到状が多く、大体の軍役がどの程度だったかがわかる。ところが、どういうわけか信長の家臣団ではそうした着到状がないのである。

着到状がないことには、信長が家臣たちにどのような軍役基準で臨んでいたかがわからないわけであるが、唯一、この「明智光秀家中軍法」によってある程度のことがわかる。たとえば、第8条で、

一、軍役人数百石ニ六人多少可准之事

とあるように、100石の知行を与えられた家臣は戦いのとき、6人で出陣せよとなる。

以下、100石~150石、150石~200石と続き、最後の第18条では、

一、千石ニ甲五羽、馬五疋、指物拾本、鑓拾本、のほり弐本、鉄炮五挺事、付馬乗一人之着到可准弐人宛事

となっている。「甲」は兜のことで、この場合、兜をかぶった武士5人、馬に乗った武士5人、指物持ち10人、鑓持ち10人、幟持ち2人、鉄砲持ち5人で合計37人での従軍が基準となっていたことがわかる。江戸時代の軍役基準が1000石につき25人というのとくらべても多くの兵の動員がなされていたことがわかる。

厳しかった光秀の軍律

明智光秀、御霊神社
御霊神社の社殿。光秀の桔梗紋が至るところに見られる

さて、「明智光秀家中軍法」の前半第1条から第7条までは、その表題の通り、軍法を定めたものである(以下、引用は読み下し)。第1条は、

一、武者、備場において、役者の外、諸卒高声ならびに雑談停止の事。付り、懸り口その手賦・鯨波以下、下知に応ずべき事

となっている。「役者」は役付きの者といった意味で、この場合は軍奉行や武者奉行、足軽大将などの指揮に携わる者をさしている。

第3条は、

一、自分の人数其手々々相揃え、前後召し具すべき事。付り、鉄炮・鑓・指物・のぼり・甲立雑卒に至りては、置所法度のごとくたるべき事

とあり、統一した行動を取ることを定めている。注目されるのは第6条である。

一、或いは動き、或いは陣替の時、陣取と号し、ぬけがけに遣う士卒の事、堅く停止せしめおわんぬ。

「動き」は実際の戦いのときのことをいっている。どうしても、兵たちは手柄を立てたい一心で抜け駆けに走る者が出てきがちである。抜け駆けをされたのでは全軍の統制が取れないわけで、そうした行為を禁止していたことがわかる。

こうした軍律の厳しさがあったため、天正10年(1582)6月2日の本能寺の変とその後も光秀軍は統制が取れていたのである。

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執筆/小和田哲男(おわだてつお)
公益財団法人日本城郭協会  理事長
日本中世史、特に戦国時代史研究の第一人者として知られる。1944年生。静岡市出身。1972年、早稲田大学大学院文学研究科 博士課程修了。静岡大学教育学部専任講師、教授などを経て、同大学名誉教授。
著書 『戦国武将の手紙を読む 浮かびあがる人間模様』(中央公論新社、2010)
   『明智光秀・秀満』(ミネルヴァ書房、2019)ほか多数
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