萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第35回 引田城 秀吉政権の威容と技術が残る海城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。35回目の今回は、瀬戸内海に突き出す島に築かれた引田城(香川県)。豊臣秀吉の時代の城を知ることができる、その貴重な見どころに迫ります。


引田城、石垣
北二の丸の石垣

瀬戸内海に浮かぶ壮大な海城

引田城は、仙石秀久に代わり讃岐に入った生駒親正が、阿波との国境に築いた城です。織豊系の城が家臣によって全国に伝播した例として貴重で、ここに最大の価値があります。設計面の発達や石垣築造の技術向上を知る上でも、豊臣政権時代の城の姿が残る、全国で希少な城といえるでしょう。古代から東讃地方における流通の重要拠点であったこと、瀬戸内海を通じて畿内へと通じる海上交通の要衝でもあったこと、中世から開かれた引田港の存在も忘れてはなりません。やがて親正が讃岐支配における東讃の押さえと位置付けたのも、この立地条件あってのことです。

瀬戸内海に突き出した、標高約82メートルの陸繋島の城山に築かれています。江戸時代中期まで、引田城は瀬戸内海に浮かぶ壮大な海城だったよう。城山のほぼ全域を取り込んで築かれ、城域は400×300メートル以上。東側の谷筋を挟んで北東側の東の丸から南東側の本丸にかけて、2本の尾根筋にU字状に曲輪が配されています。南二の丸と北二の丸を中心とすれば、南東側に本丸、北東側に東の丸、さらに北側に派生する尾根上に北曲輪を置く構造です。

登城口は2つありますが、いずれも大正時代末期に整備された遊歩道です。本来の大手道は、西山麓から南二の丸と北二の丸の中間点に通じる道筋。山麓には「玄関谷」と呼ばれる地区があり、家臣団の屋敷地があったと推定されています。大手道を登り切ると到達するのは、南二の丸と北二の丸の間にある大手門。南二の丸と北二の丸の間に鞍部がみられ、ここが大手門跡と思われます。付近には鏡石と思われる巨石がいくつも残り、今でも門前の構えが感じられます。

引田城、遠景
引田城の遠景

築城時の情勢が伝わる、必見の高石垣

大手道の左右には、南二の丸から北二の丸まで約100メートルにも及ぶ石垣が続いていました。大手門を抜けると南二の丸へ続く道筋と北二の丸へ通じる道筋へと分岐したようで、南二の丸を進むと本丸に至ります。

本丸は最高所ではありませんが、複雑に折れ曲がり、外枡形虎口もあります。眺望のよさが曲輪の優位性を物語ります。櫓台(天守台)の石垣は破却されたような痕跡がありますが、高さは2メートルほどあったよう。必見は南西側の石垣で、未発達の算木積み、石材の加工や積み方から築造年代が伝わります。

東の丸は上下2段から構成され、上段には櫓台らしき跡が確認されています。ここから谷筋に降りたところにあるのが、化粧池という巨大な水溜。これほどまでに大規模な貯水池は、全国でも珍しく、必見です。

最大の見どころは、北二の丸に上下2段に積まれた石垣。上段は高さ2〜3メートル、下段は高さ5〜6メートルの高石垣です。とくに、折れを伴いながら累々と続く、下段の石垣は圧巻。豊臣政権の威光を示すべく築き上げられたであろう、軍事的な緊迫感と政治的な緊張感がひしひしと伝わってきます。親正の技術力も感じられます。勾配は60度と直線的で、築造年代の古い石垣の特徴である鎬積みもみられます。

ほかの曲輪と築城の時期差が感じられるのが、北曲輪です。石垣がなく、横矢を掛ける折れなど技巧的な設計もみられません。おそらく、生駒親正が城を大改修した際に、城域から外されたのでしょう。親正による改変を免れた、戦国時代の引田城の一端かもしれません。

引田城、石垣
本丸南西側の石垣

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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