萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第30回 赤木城 抑止力が意識された、先駆的な設計と石垣

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。30回目の今回は、築城名人・藤堂高虎が手がけた赤木城(三重県)。豊臣政権の権力を誇示すると同時に防御の工夫も凝らした造りの特徴に注目します。



赤木城、二重枡形虎口
主郭の二重枡形虎口

旧勢力を抑えるべく、藤堂高虎が築城

1585年(天正13)の羽柴(豊臣)秀吉の紀伊侵攻により、奥熊野は秀吉の傘下に入ります。この地は、新宮から風伝峠を超えて吉野方面に通じる北山街道が通り、田平子峠を越えて入鹿・本宮方面に通じる十津川街道も走る場所。周辺は古くから銅などの鉱山資源に恵まれ、入鹿では刀鍛冶が行われ、熊野では木材が産出されていました。秀吉政権下でも、城や寺社造営の木材の供給源として重要視されていたようです。

羽柴秀長の領地となったものの、浪人の反発は強く熊野支配は難航。1586年(天正14)からは、鎮圧に3年を要した北山一揆も起こっています。赤木城は、材木伐採に関わる山奉行のひとりとして置かれていた藤堂高虎が、一旦の鎮圧後に在地の旧勢力を抑える目的で1588年(天正16)ごろに築城したとされています。

赤木城
南側から遠望する赤木城

権力を誇示し、実戦にも備えた先駆的な城

同時期に築かれた城と比較すると、中世の城らしい地形の使い方でありながら、近世の城の特徴である石垣や技巧的な縄張(設計)が導入された先駆的な城といえます。主郭に設けられた二重枡形虎口は、内枡形と出枡形を組み合わせた二重枡形虎口。内枡形の外側には、櫓門跡と思われる礎石も検出されています。織田・豊臣系の城の特長と合致し、豊臣政権の一角として力を誇示する象徴的な城だったといえそうです。石垣も、街道から見えることに大きな意義があったと思われます。

石垣の積み方の違いからも、情勢と築城の意図が感じられます。西郭と東郭の石垣を比較すると、西郭よりも東郭のほうが積み方が整っているのです。東山麓を縦貫する、北山街道からの見栄えを意識してつくられたと考えられます。東郭の石垣が高く険しく積まれ、横矢掛かりを意識した設計であるのも、東側が侵入口となるためでしょう。赤木城から800メートルほどのところには、高虎が反発した北山の国人や土豪を処刑したとされる田平子峠刑場跡があり、当時の緊迫感がうかがえます。

必見は、高さ4メートルほどの立派な石垣で囲まれた主郭です。周辺の集落が一望できるのも、この城の意義を実感できるポイント。まだ未発達な隅角部の算木積み、大小の石材が入り混じった野面積みの石垣は見ごたえがあります。二重枡形虎口は道筋を何度も折り曲げてあるだけでなく、下段の虎口には階段がないなど防御の工夫が感じられます。

赤木城、算木積み
主郭の算木積み

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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