お城の現場より〜発掘・復元最前線 第8回 【江戸城】震災被害からの復旧を目指す常盤橋

日本全国で行われている城郭の発掘調査や復元・整備の状況、今後の予定や将来像など最新情報をレポートする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。今回は、千代田区文化振興課 後藤宏樹さんに、東日本大震災で被災した江戸城(東京都)の遺構・常盤橋の修復について紹介いただきます。



江戸城、常盤橋
修理前の常盤橋

文明開化の面影を残す橋

常盤橋門は、江戸城の正門である大手門へ向かう外郭門。中世には江戸と浅草を結ぶ街道の要衝であったと考えられ、現在の丸の内・大手町、日本橋の結節点である常盤橋周辺は、中世以来の「江戸・東京」の中心地に位置していた。

この常盤橋門は、慶長11年(1606)の江戸城外郭工事によって土手の喰違による城門が築かれ、寛永 6年(1629)には出羽・奥羽の大名により江戸城東方の外郭諸門とともに石垣による枡形門が築造される。そして、寛永13年(1636)の江戸城築城の総仕上げとしての江戸城外堀普請の時に、常盤橋門周辺の堀石垣が福井藩主・松平忠昌によって築かれた。

江戸城、常盤橋、常盤橋門、木造
明治4年(1871)に撮影された常盤橋と常盤橋門。明治時代にかけ替えられるまでは木造だった(東京国立博物館所蔵)

明治維新後、江戸の城門が次々解体されるなか、常盤橋門も明治6年(1873)に高麗門や渡櫓門が撤去され、明治10年(1877)には江戸時代以来の木橋を撤去し、小石川門の石垣石材を使って、二連アーチ石橋の常盤橋がかけられた。この常盤橋の特徴は、歩車道分離、大理石による八角形の親柱に洋風の笠を付けるなど、国内でも珍しい文明開化の面影を見ることができる。また、壁石を橋のアーチ曲線に合わせて、切石を同心円状に積むという、それまでの石造アーチ橋にはみられない技術も採り入れ、全体的なデザインは和洋折衷という印象を受ける橋で、丸の内や日本橋に点在する近代の歴史遺産とともに、この地域の歴史を彷彿とする文化財となっている。

都内の石橋は、明治後期の市区改正や大正から昭和初期の震災復興によりコンクリートや鉄の橋にかけ替えられていく。しかし、この常盤橋は、西洋文化を橋の上に現した最初の橋として、市民運動によって保存が決まり、関東大震災復興後の1928年に常盤橋門跡として、良好に保存されてきた枡形石垣とともに国史跡となり、1934年に史跡公園として常盤橋公園が開設された。

江戸城、常盤橋門跡、石垣、桝形
常盤橋門跡。門は明治時代に撤去されたが、枡形を構成する石垣が現在も残っている

東日本大震災からの復旧

現在、千代田区では東日本大震災で被災した常盤橋門跡の石垣と常盤橋の修復工事を行っており、文化財調査によって門と石橋の構造などが少しずつ明らかになっている。

江戸城、常盤橋修復、石材
常盤橋修復工事の様子。石材の解体により内部構造を確認することができた(かみゆ歴史編集部提供)

まず、枡形石垣は、1965年の首都高速道路建設で内部構造が破壊されていましたが、石垣角石は花崗岩の巨石を使い、チキリで角脇石を連結させる構造が確認された。石橋橋台内部からは江戸時代の橋台石垣と木橋の下部が発見され、江戸城内で残存していない城門橋台の構造が判明した。

江戸城、橋脚下部、解体
橋脚下部の解体状況。橋脚は石材の基礎を何重にも重ねた頑健な構造だ

一方、常盤橋の調査では、輪石石材の裏側から、小石川門の石垣を築いた岡山藩池田家を示す「◇」の刻印が多数発見され、小石川門の築石を転用加工して橋の輪石が建設されたことが確実となった。また、沖積地の軟弱地盤であることから、地盤深く地形杭を打ち込み、その上に十露盤(そろばん)、捨土台(すてどだい)という土台を置いて不等沈下を防ぎ、根石でアーチ輪石などを支えるという非常に堅牢な基礎構造となっている。在地の石垣基礎構造を応用した技術と九州の石橋築造技術の融合によってこの石橋が築造されたことが判明した。

常盤橋の修復工事は来年度中に完了する見込み。修復された橋のお披露目は、「常盤橋街区再開発プロジェクト」の完了とともに行う予定である。

江戸城、常盤橋、小石川門、石材、転用
石材に刻まれた刻印。これにより常盤橋は小石川門の石材を転用したことが明らかになった


江戸城(えど・じょう/東京都千代田区)
江戸城は豊臣政権下で関東に移封となった徳川家康が居城として改修した城。家康が江戸幕府を開くと将軍の居城として、政治の中心地となる。明治維新により新政府に明け渡され、天皇の住まい(皇居)となった。江戸の町全体を惣構堀で囲んでおり、現在もその名残を各所で見ることができる。

執筆者/後藤宏樹(千代田区文化振興課)

写真提供/千代田区文化振興課

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