2023/09/21
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第69回 水戸城 関東屈指の堀と土塁、復元された大手門
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。69回目の今回は、徳川御三家の一つ「水戸徳川家」の居城として知られる水戸城(茨城県水戸市)です。現在も残っているダイナミックな堀切と土塁、さらに復元整備が完了した大手門や二の丸角櫓など見どころを紹介します。
復元された大手門
堀底が線路に!壮大なスケールが一目瞭然
水戸城は、12世紀末から13世紀初頭に馬場資幹(すけもと)が構えた居館がはじまりとされます。南北朝の動乱期になると、常陸守護の佐竹氏が台頭。馬場大掾氏(だいじょうし)が衰退すると、佐竹氏配下の土豪・江戸氏が水戸城を奪取して支配拠点としたようです。やがて豊臣秀吉の天下統一を機に佐竹義宣が居城とし、城を拡張して城下町も整備。関ヶ原の戦いの後は徳川家の支配下に置かれ、慶長14年(1609)に徳川頼房を水戸藩初代藩主として御三家水戸徳川藩が成立した後は、11代にわたり御三家の城として存続しました。
北を那珂川(なかがわ)、南を千波湖(せんばこ)と桜川に挟まれた上市台地の東端に築かれています。那珂川と千波湖に挟まれるようにして東西に広がり、さらに東には沖積低地が広がる、三方を囲まれた立地でした。東西に細長い台地を堀で分断しながら、土塁で囲まれた曲輪が並びます。東から東二の丸(下の丸)、本丸、二の丸、三の丸が置かれ、これらが城の主要部でした。
最大の魅力は、ダイナミックな堀切と土塁です。とりわけ本丸、二の丸、三の丸の堀切と土塁は圧巻。本丸西側の堀と土塁は幅40メートルもあり、その規模を生かして現在は堀底がJR水郡線の線路になっています。二の丸西側の堀と土塁も見事で、幅の広さと直線を生かして堀底に県道232号がつくられています。
本丸西側の堀と土塁
よみがえった大手門!練塀も必見
平成26年(2014)度からの本格的な歴史景観整備事業により、学術調査をもとに大手門や二の丸角櫓、土塀などが復元されました。
城が断片的に可視化されたことで、水戸城の城域や曲輪の広さ、堀や土塁のダイナミックさ、城門の大きさ、縄張の秀逸さが格段にイメージしやすくなりました。たとえば、二の丸の玄関となる大手門の復元により、二の丸の広さや曲輪の配置はもちろん、城の正面が西側であることが感覚的にわかるようになっています。必見は、発掘調査で見つかった「練塀(瓦塀)」。瓦と粘土を交互に積み上げてつくった塀のことで、一部が大手門脇の地下に展示されています。
二の丸の南西隅に建っていた、二重二階の二の丸角櫓も復元されています。4か所に建てられていたとされる角櫓のひとつで、北側と東側にそれぞれ多聞櫓が接続します。二の丸の南西隅に位置し、かつて城下町があった水戸駅付近から見上げると、城下町に向けた象徴的な建物だったことが連想できます。
現存する薬医門
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。