2023/04/28
萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第65回 飫肥藩主に返り咲いた、伊東氏の城と城下町 飫肥城
城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。65回目の今回は、14代にわたって飫肥(おび)藩を治めた伊東家の居城・飫肥城(おびじょう。宮崎県)です。飫肥杉を用いて復元された迫力満点の大手門など、城内の見どころを紹介します。
復元された大手門
日向伊東氏、島津氏に敗れるも城主に返り咲き
静岡県伊東市を本拠地とした伊東氏をルーツとする、日向伊東氏の城です。日向伊東氏は戦国時代に島津氏に敗れ一度は国外に逃げたものの、羽柴(豊臣)秀吉の九州平定にともない飫肥城主に復活。関ヶ原の戦い後も本領を安堵され、明治維新まで伊東家14代が飫肥藩を治めました。
飫肥城は、もともと島津氏の南日向における統治拠点でした。城の東・西・南側を囲むように蛇行する酒谷川は、東流して広渡川に合流し、広渡川はやがて日向灘に注ぎます。河口付近の油津は、古くから日本と中国大陸をつなぐ貿易の中継港でした。
天正16年(1588)に秀吉政権下で飫肥城に腰を据えた伊東祐兵(すけたか)は、島津氏時代の飫肥城と城下町を大規模に整備。その後、寛文2年(1662)、延宝8年(1680)、貞享元年(1684)と立て続けに地震に見舞われたことから、幕府の許可を得て貞享3年(1686)から大改修されました。これより、現在のような近世的な城になったとみられています。中ノ丸と松尾の丸、今城の一部を切り離して本丸とし、石垣が積まれ、南東隅と東側には二階櫓が設けられました。
城内側から見た大手門枡形
飫肥杉の大手門、風情ある城下町も必見
本丸のほか、中ノ丸、松尾の丸、今城、西ノ丸、北ノ丸など大小13の曲輪と犬馬場から構成されていました。現在、飫肥小学校のグラウンドがある場所が本丸跡です。元禄6年(1693)に本丸が完成するまでは、西側上段の旧本丸に藩主の御殿が置かれていたようです。
城内に現存する建物はありませんが、昭和53年(1978)には大手門、翌年には松尾の丸が整備されています。大手門に採用されているのは、江戸後期から藩の専売品として全国に出荷された飫肥杉。城の正面玄関にふさわしい二階建ての立派な櫓門で、幅の広い立派な枡形も見ごたえがあります。
風情ある城下町の景観でも知られます。飫肥藩伊東家5万1000石の城下町として繁栄。江戸初期の地割り、飫肥城下町の武家屋敷の特徴である石垣や生垣、格式に応じた門構えがそのまま残ることなどから、日南市飫肥は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
飫肥城下町
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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。