萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第64回 黒田長政が築いた、九州随一の巨大城郭 福岡城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。64回目の今回は、現在の福岡市の中心地に位置する福岡城(福岡県)です。江戸時代から存在する重要文化財の多聞櫓や、福岡の街並みを一望できる天守台など、広大な敷地に広がる福岡城の見どころを解説します。

福岡城、多聞櫓
南丸(二の丸南郭)の多聞櫓

筑後50万石を拝領した黒田長政が築城

福岡城は、初代福岡藩主となった黒田長政が築いた城です。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、慶長6年(1601)から築城を開始。7年がかりで完成させました。

三の丸跡には、飛鳥時代から平安時代にかけて鴻臚館(こうろかん)がありました。博多湾に突き出す丘陵上に築かれた、博多湾を押さえる好立地。7〜11世紀前半の約400年にわたり国交の窓口として重要な役割を果たした場所といえ、福岡城はその地を掌握するように築かれたといえるでしょう。

九州随一の巨大城郭で、内郭だけでも面積約41万平方メートルに及びます。現在の大濠公園にある大きな池は、かつて万葉集にも詠まれた「草香江の入江」の跡。城の北側は潟が埋め立てられ、中心部を囲むように東・西・南・北側に城下町が展開。北側の堀端には上・中級家臣の武家屋敷が並び、その外側に職人や商人の居住地が置かれて唐津街道が東西方向に通っていました。下級武士の屋敷は城の南側に置かれ、城の東側は赤坂門を経て那珂川まで、中堀と佐賀鍋島藩の協力で掘削された肥前堀が連結していました。

福岡城、天守台
天守台

南丸の多聞櫓などが現存

城は大きく本丸、二の丸、三の丸に分かれます。最高所に本丸を置き、その西・南側に二の丸を配置。そして、東、西、南側に三の丸が広がっていました。本丸には本丸御殿が建ち、北西隅の一段高いところに天守台がありました。立派な天守台で礎石も確認されていますが、天守が建っていたかどうかはわかっていません。

二の丸には二の丸御殿などがあり、南側の南丸には多聞櫓が立ち並び防備を固めていました。東御門跡は二の丸への主要な門だったようです。二の丸から本丸への出入り口となる表御門の城門は、大正9年(1920)に黒田家の菩提寺である崇福寺に移築され、現在も山門として使われています。

堀から城内へは3つの橋が架かり、通常は、大手側にある上之橋御門と下之橋御門が城内への入り口として使用されていたとみられます。下之橋御門は1805(文化2)年に建てられたときには櫓が乗った櫓門でしたが、明治時代に上層部が失われたまま平成12年(2000)に不審火で被災。平成20年(2008)に二層の櫓門が復元されています。

南丸(二の丸南郭)の多聞櫓が国の重要文化財に指定されています。二重の隅櫓が建ち、隅櫓から長さ54メートルもの長大な平櫓が連なります。三の丸には、旧母里太兵衛邸長屋門と名島門が移築されています。

福岡城、下之橋御門、潮見櫓
下之橋御門と(伝)潮見櫓

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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