萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第59回 平戸城 焼滅から異例の復活!港湾を見下ろす絶景の城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。59回目の今回は、平戸瀬戸の海を望む島に建てられた平戸城(長崎県平戸市)です。外様大名である松浦氏をめぐる波乱万丈の築城ドラマや、素晴らしい絶景を堪能できるお城の特徴や構造を見ていきましょう。

平戸城
平戸港から見上げる平戸城

完成直後に藩主が放火

焼滅と復活のドラマがある城です。築城したのは、豊臣秀吉の領地を安堵されていた、初代藩主の松浦鎮信。慶長4年(1599)から、平戸城の前身である日の岳城を築きました。ところが慶長18年(1613)、完成直後の城に自ら火をつけて焼き払ってしまうのです。松浦家は豊臣家とつながりが深く、江戸幕府からその動向を疑われてのことともいわれます。松浦氏が外様大名として生き残る苦肉の策だったのかもしれません。

河口を挟んで向かい側の山腹にある「御館」を長らく拠点としていましたが、5代藩主の松浦棟のとき、復活の転機が訪れます。元禄4年(1691)、5代将軍・徳川綱吉の外様大名登用策により寺社奉行に就任したことで、城の再建が許されたのです。こうして、松浦家悲願の平戸城が、享保3年(1718)に完成しました。

外様大名の松浦氏がこの時期に築城できたのは、かなりの特例といえるでしょう。綱吉の側近として重用された牧野成貞は、4代藩主・松浦鎮信のいとこで、城持ち(城主格)の譜代大名と同等の立場にあったとされます。棟および棟の子の長も、近臣として綱吉に仕えています。3代にわたる綱吉との良好な関係が、再築城の実現へつながったようです。

平戸城
平戸城の天守

貿易船を監視する絶好の立地

平戸は、ポルトガル船の来航を機にいち早く開港し、オランダ商館が閉鎖し長崎出島に移転するまで交易の窓口として機能した地。平戸瀬戸に突き出す丘陵上にある平戸城は、港湾を見下ろせ、行き交う貿易船を監視するのにふさわしい立地が最大の特徴です。

天守は存在せず、二の丸西側に建つ乾櫓が実質的な天守だったといわれます。江戸時代中期の平戸城を描いた絵図を見ると、東・西・北面の三方は海に囲まれ、平戸湾に面する西麓には城に直結した御舟入りがあったようです。

城内には、二の丸の北虎口門と狸櫓が江戸時代から残っています。北虎口門は搦手の防御の要。門戸は復元されたものです。本丸の見奏櫓(けんそうやぐら)は、天守とともに昭和37年(1962)に建てられたもの。見奏櫓からは眼下に迫る平戸湾を望めます。

平戸城、見奏櫓
天守から見下ろす見奏櫓

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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