萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第58回 佐賀城 佐賀の乱の爪痕残る鯱の門と復元された本丸御殿

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。58回目の今回は、佐賀鍋島藩36万石の居城だった佐賀城です。木造復元建物としては日本最大規模となる本丸御殿(佐賀城本丸歴史館)、現存する鯱の門や続櫓など、かつての城の面影が伝わってくる見どころを紹介しましょう。

佐賀城、鯱の門
本丸側から見た鯱の門

佐賀藩主・鍋島氏11代の居城

佐賀城(佐賀県)は、佐賀藩主・鍋島氏11代の城です。龍造寺隆信の家臣だった鍋島直茂と、その子で初代佐賀藩主の鍋島勝茂が、龍造寺氏の居城だった村中城を拡張。勝茂が慶長13年(1608)から本格的に佐賀城を築いて居城としました。

江戸時代の絵図を見ると、城はほぼ正方形。本丸と二の丸は水堀に囲まれ独立し、本丸の北・西側と東側の一部は石垣、東側南半分と南側は土塁で囲まれていたことがわかっています。かつては石垣に沿うように水堀が設けられ、本丸北西隅の天守台も水堀に突き出すように建っていました。水堀と石垣の間には帯曲輪が設けられ、一部では通路に敷かれた砂利も確認されています。本丸西側に展示されている石製の樋管とそれに続く赤石製の水路は、本丸内に水を引き込むためのものと考えられる施設です。

本丸西側の水堀は埋め立てられているものの、天守台へ至る虎口周辺のルートは残り、本丸の構造をたどれるのがうれしいところ。二の丸から土橋を経由して帯曲輪を抜け、天守台へ上がる石段に至ります。虎口は喰い違い虎口になっており、おそらく前面には城門もあったと思われます。

佐賀城、天守台
天守台

復元された本丸御殿、現存する鯱の門

享保11年(1726)と天保6年(1835)の2度に及ぶ大火災で建物の多くが焼失しており、とくに1726年の火災被害は甚大で、天守をはじめ本丸、二の丸、三の丸の建物が全焼しています。1726年の火災の翌年に二の丸に藩政の中心が移され、1835年の大火災で二の丸の建物が焼失すると、10代藩主の鍋島直正が本丸御殿を再建しました。

発掘調査の成果や古写真などの史料をもとに、本丸御殿が復元されています。位置や外観のほか、建物内部の構造も再現。かつては本丸内にびっしり建物が建ち並んでおり、復元されていない部分は平面表示されています。

本丸御殿は明治7年(1874)の佐賀の乱でも焼失を免れ、明治維新後は佐賀県庁や裁判所として再利用。大正時代に玄関などは解体されましたが、藩主の居間として使われた御座間は残り、別の場所での活用を経て、本丸御殿の復元を機に本丸御殿内に再移築されています。

本丸への玄関となる鯱の門は、度々の火災や佐賀の乱でも焼け落ちなかった貴重な現存建造物。1838年の本丸再建時に建造されました。珍しい名称は、屋根の両端に置かれた青銅製の鯱が由来。門には二重二階の櫓が乗り、一重二階の続櫓が北西側の石垣に続いています。門扉には佐賀の乱の爪痕が残り、貫通する弾痕が激しい銃撃戦のようすを物語っています。

佐賀城、本丸御殿の平面表示
本丸御殿の平面表示

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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