理文先生のお城NEWS解説 第5回 飛騨国司姉小路氏関連城郭の発掘調査 1

加藤理文先生による「理文先生のお城NEWS解説」。全国のお城では日々発掘調査や研究が行われていますが、この連載ではお城のニュースについて、こういうところに注目すると面白い、というようなポイントや注目すべき点を加藤先生から教わります。第5回目は「姉小路氏関連城館跡保存活用事業」として古川城跡と小島城跡の発掘調査を実施した成果を解説します。



岐阜県飛騨市は、中世に朝廷より飛騨国司に任じられた姉小路(あねこうじ/あねがこうじ/あねのこうじ)氏に関連する5つの山城(古川城跡・小島城跡・野口城跡・向小島城跡・小鷹利城跡)の史跡指定を目指し、平成30年度に「姉小路氏関連城館跡保存活用事業」として、古川城跡と小島城跡の発掘調査を実施しました。もともと両城には、石垣と思われる石材が表面観察でも確認されていました。そこで、果たして石垣が利用されているのか、また利用されているとしたらその規模はどの程度か、積み方から年代特定はできるのか、時代特定可能な遺物は出土するのか等の調査成果が大いに期待されました。今回と次回の2回に分けて、この発掘調査の成果についてまとめてみたいと思います。

飛騨古川盆地周辺の歴史

後醍醐天皇より飛騨国司に補任された姉小路氏は、古川盆地(現在の飛騨市古川町周辺)を支配の拠点としました。やがて北朝方の守護・京極氏に敗れ、三家(古川・小島・向)に分裂し、それぞれが古川盆地に城を構えることになります。

その後、古川氏が断絶状態となると、京極氏の家臣・三木氏が古川家の名跡継承を朝廷に認めさせました。天正10年(1582)、江馬氏を滅ぼし、飛騨全土を治めることになります。同13年、三木氏は羽柴秀吉と敵対したため、秀吉の命を受けた金森長近と養子で2代を継ぐ可重(ありしげ/よししげ)が飛騨に侵攻します。この戦いで、三木氏を滅した金森長近・可重は、飛騨国古川で1万石を領すことになりました。飛騨を領有した長近・可重は、当初古川城に入りますが、同14年に増島城が完成するとここに居城を移すことになります。

古川城跡
上町遺跡から古川城跡を望む(東から)(飛騨市教育委員会提供)

古川城の歴史と構造

姉小路氏三家の1つである古川氏の居城と言われ、基綱(もとつな)・済継(なりつぐ)・済俊(なりとし)と当主となった三代が立て続けに死去し断絶状態になると、京極氏の家臣・三木氏が古川家の名跡継承を朝廷に認めさせ、古川城を本拠としたと考えられています。天正13年(1585)、秀吉の命を受けた金森長近・可重が三木氏を滅ぼすと、増島城を築くまでの間、古川城に入りここを拠点にしたと伝わります。

城は、中世古川の中心的集落の上町遺跡を見下ろす宮川左岸の標高629m(比高約130m)の山頂部を中心に築かれています。山頂部の主郭西側が、一段高い櫓台となり、東下に一段低く小曲輪が付設。斜面は急傾斜の切岸で、周囲を帯曲輪が取り巻いています。尾根続きに階段状に曲輪が設けられ、東端南側に枡形状の虎口が見られます。この東下に、二段の帯曲輪が配され、北東尾根続きに空堀と土塁が配され、遮断線としていました。

南斜面には竪堀と腰曲輪が配され、西側には小曲輪を配して巨大な堀切によって、完全に尾根続きを遮断していました。なお、「蛤石(はまぐりいし)」と呼ばれる伝説の石が、虎口西上の曲輪上に残されています。蛤石とは、石の表面が粒状の模様で埋め尽くされた球状閃緑岩(きゅうじょうせんりょくがん)で、ナポレオン石とも呼ばれる希少石で、飛騨民族考古館の所蔵品が対となる蛤石と言われています。

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古川城跡 微地形表現図(飛騨市教育委員会提供)

古川城跡調査地点図
古川城跡調査地点図(飛騨市教育委員会提供)

古川城跡の試掘確認調査〈主郭〉

主郭で礎石建物跡を確認しました。北側切岸でも礎石列が検出され、これは曲輪縁にあった礎石がずれ落ちたと理解されます。東西列、南北列の端部礎石は半間おき、内部は半間、あるいは1間の箇所もあり、現状では判断が出来ませんでした。北側斜面端部は、石列状となっているため、次年度以降追加調査を実施し、北端礎石列の配置を把握する必要が指摘されます。現状で見る限り、建物跡は5間×4間が想定され、重層櫓となることも想定されます。

古川城跡主郭部オルソ画像図
古川城跡主郭部オルソ画像図(飛騨市教育委員会提供)

未調査の南側部分も2~3間程の広さを有するため、ここに入口施設、あるいは付櫓状の施設も想定されるため、追加調査が必要と思われます。また、東側の一段高くなる部分に、石垣や区画溝が未検出であるため、東側に拡張し、建物列が現在の礎石で終結しているのかも、確認しなくてはいけない課題です。

出土遺物は少なく、かわらけ(中世段階の素焼きの土器で、食器や儀式や祭祀に使われていました)と天目茶碗です。かわらけは、姉小路氏時代のものと考えられますので、姉小路氏段階から主郭が利用されていたことが判明しました。また、礎石建物に伴う建築部材は未検出で、特に壁材や瓦は確認されませんでした。そのため、板壁・板屋根の建物が想定されます。

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左:礎石建物北側礎石列(東より)  上:礎石建物北側斜面崩落礎石(西より)


古川城跡の試掘確認調査〈虎口〉

虎口の石垣の一部は、「 状に露頭していましたので、石垣の範囲とどの程度の高さを有するか、また根石はどこかを確認しました。北側(曲輪側)は、通路に沿ってほぼ10m石垣列が続く可能性が高まり、通路に沿って東側が高くなっていたと思われます。また、南側通路下の斜面も石垣の可能性があります。通路正面の西側が、鏡石状の巨石によって閉塞されていることも、ほぼ確実となりました。曲輪へ上がるための石段状の踏み石と思われる石材が、通路北面で検出されましたが、確実性に欠けるため、木の階段を利用して上がっていたことも考える必要があります。ほぼ構造は判明したので、今後未確定の部分を確定させるための追加調査が必要になってきます。

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虎口の石垣(南東より)右側が、通路北側の石垣で、左奥が西側の石垣による閉塞部になります。左側の曲輪上にわずかに見える黒い建物が「蛤石」の覆い屋です

古川城跡の試掘確認調査〈虎口下の切岸〉

石垣が残存していることが判明し、石垣によって城域を区画していたことがほぼ確実となりました。ただ、石材が崩落し石垣として旧状を留めているかが確定できないため、追加調査を実施し、切岸面が全面石垣であったかを確認する必要があります。

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左:虎口下の切岸下部で検出された石垣石材  右:主要部を区画するための巨石列

以上、古川城の確認調査の主な成果をまとめてみました。姉小路氏段階では無かった石垣を、金森氏段階で導入したことは確実ですが、どの範囲にどの程度の石垣があったかは、未だはっきりしません。今後も、調査を継続し、金森氏段階の城の構造解明をする必要がありそうです。今回の最大の成果は、主郭櫓台に礎石建物が存在していたことが判明したことと、斜面に石垣が用いられていたことが確実になったことです。また、虎口に巨石を用いると共に、登城路が石垣で固められていた可能性が高まったことです。次回は、小島城の調査成果と、古川城で検出された遺構が何であったかを検証したいと思います。


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加藤理文先生
加藤理文
公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭

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