萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第48回 岩国城 防御性と美観を兼ね備えた堅城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。48回目の今回は、初代岩国藩主の吉川広家が山上に築いた岩国城(山口県岩国市)。江戸時代初期という不安定な情勢の中、防御力の高さを追求して造られた総石垣の堅城の特徴を見ていきましょう。

岩国城、錦帯橋
錦川から錦帯橋越しに見る岩国城

技術の高さが光る、毛利一族の一翼を担った城

関ヶ原の戦い後、岩国3万石を拝領した吉川広家により築かれた城です。不安定な情勢下にあり、軍事性を考慮して山上に城を構え、山麓に「御土居(おどい)」と呼ばれる居館を置いて藩政の中心地としていました。

山麓を流れる錦川が、城と居館を三方から囲み天然の堀となっていました。岩国城の外堀の一部であると同時に城と城下町を隔てる境界線でもあり、錦川を境に、城側には諸役所や上級武士の居住区、外側には中下級武士の屋敷や町人地が広がっていました。

錦川沿いから錦帯橋を見上げると、背景に岩国城の天守が見えます。昭和37年(1962)に天守が復興される際、山麓から見上げたときに錦帯橋とセットで美観が完成するよう、本来あった場所から50メートルほど南側に建てられました。もともと天守が建っていた場所には、天守台が復元されています。天守は、古絵図を元に再建。三重目が下層の屋根より張り出した、珍しい「南蛮造」の天守です。

岩国城、復元天守
復元された天守

効率的な設計、破却の痕跡にも注目

戦国時代の防御的な発想が取り入れられ、かつ江戸時代初期特有の美観も重視された城です。関ヶ原の戦いの直後にこれほど軍事性が高く本格的な総石垣の堅城を築けたのは、吉川広家の築城技術力の高さといえるでしょう。

城は本丸を中心に、北の丸、二の丸、水の手郭が三方を囲みます。本丸は盛土をして一段高くし、山陽道側に天守が設けられました。本丸と北の丸の間に残っている巨大な空堀からも、独立性の高い空間がつくり出されていたことがわかります。北の丸から本丸への虎口は枡形虎口で、空間を見下ろすように三重櫓が建っていました。

大手門(表門)は二の丸の南東側にあり、出丸を備えた二重枡形虎口でした。大手門が、本丸北東側にある北の丸の御本門の延長線上にあるのも秀逸。草木が茂り肉眼では確認できませんが、北西側の斜面には「登り石垣」が見つかっています。

関ヶ原の戦い後の毛利一族の歴史を知る上でも、感慨深い城です。安芸(広島県西部)との国境付近にあり、長府とともに東西の守りを固めた城と考えられます。一国一城令の公布後は廃城となり城内には破却の痕跡がありますが、最低限の破壊に留まったようです。山上の岩国城が使われた期間はさほど長くはありませんが、戦国時代末期から江戸時代初期の情勢を伝えてくれます。

岩国城、石垣
本丸南西側の石垣

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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