萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第44回 河後森城 伊予・土佐国境、最前線の城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。44回目の今回は、国境の要所に築かれた山城・河後森(かごもり)城(愛媛県)。山の地形を利用して大小さまざまな曲輪群がU字型に連なる、城の構造を見ていきましょう。

河後森城、西第十曲輪
西第十曲輪

江戸時代まで機能した、伊土国境の押さえ

河後森城があるのは、伊予(愛媛県)と土佐(高知県)の国境付近。四万十川の支流である広見川、その支流の堀切川・鰯川の3つの川に囲まれた独立丘陵上にあります。

土佐から伊予へは、文献などからおもに3つルートが想定され、河後森城の北山麓で合流します。いずれのルートも、河後森城下を通る松丸街道を通過しなければなりません。中世の松丸街道はほぼ近世と同じ道筋と推定され、町内には3つのルートに沿うように17の中世山城が存在しています。

河後森城は、ちょうど広見川が西から東へと蛇行する右岸に位置。河岸段丘によって形成された平地を一望できる、視界がもっとも開けた場所にあり、城の東側は松丸街道に沿っています。近世に入っても継続して使用された歴史が、国境の城としていかに重要視されたかを物語っています。

河後森城、堀切
東第四曲輪と古城第二曲輪の間の堀切

屋敷を取り囲むように「U」字に並ぶ曲輪群

馬蹄形の尾根線上に、東から古城・本郭・新城の3つのエリアが置かれ、内側の風呂ヶ谷に屋敷群がありました。中央を南北に通る細長い風呂ヶ谷を取り囲むようにして、最高所に本郭、本郭から西方向は西第二曲輪から西第十曲輪までの9つの曲輪、東方向は東第二曲輪から東第四曲輪、古城から古城第四曲輪の7つの曲輪、さらに古城の南には新城の曲輪群が階段状に連なる構造です。

長く使われた境目の城らしく、改変が繰り返されています。東第四曲輪と古城第二曲輪の間の堀切では、6段階に及ぶ掘立柱の門跡を検出。堀底を通路としていたことが確認されています。興味深いのは、城門の角度が付け替えられていること。曲輪には塀庇(石打棚)があり、通路を駆け上ってくる敵を狙い撃ちできるよう設計されていたと思われます。城門も、城内外を結ぶ重要な玄関口として、少しずつ改造したのでしょう。本郭への虎口も2時期の改変があり、古い堀切を壊して石垣を構築して近世の城へと刷新したようです。

登城道のつくり方はなかなかおもしろく、本郭南斜面では全長16メートルに渡って岩盤を削りつくり出したらしい平坦面が検出されています。西第二曲輪と西第三曲輪との間から検出された岩盤をくり抜いた大規模な堀切も、堀底を通路としていたとみられます。

西第十曲輪は馬屋と思われる建物が確認されているほか、生活にともなう出土品が多い場所。本郭から階段状に連なる曲輪群のなかでもっとも低い位置にあるため、周囲の切岸が削り込まれ、空堀や竪堀で強化されているのも特徴です。古城には番所や櫓が建ち、周囲の支城を見渡せ、敵を迎え撃つ戦闘的な空間だったと連想されます。新城はがらりと雰囲気が変わります。古城と呼ばれますが、城の防衛を固めるべく増築されたものと思われます。

河後森城、新城、切岸
新城の切岸

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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