お城の現場より〜発掘・復元最前線 第43回【吉田城】石垣調査で安土桃山以降の本丸整備に新知見

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第43回は、東三河の要の城として、徳川四天王の酒井忠次や、豊臣秀吉の重臣である池田照(輝)政が入った吉田城(愛知県豊橋市)。南多門堀底石垣と千貫櫓台の発掘調査で判明した石垣の元来の姿について、豊橋市美術博物館の中川永さんが紹介します。

石垣の修復にともない発掘調査を開始

戦国時代に築かれた今橋城を前身に、安土桃山時代には徳川四天王・酒井忠次や、豊臣秀吉の重臣・池田照政、江戸時代には歴代の譜代大名が入り、全国10指に数えられる巨大城郭として整備された吉田城。現在も往時を物語る石垣群や、総延長1㎞を超える土塁が現存している。令和3年(2021)度には、豊橋市の史跡に指定された。

豊橋市文化財センターでは、平成29年(2017)度より城址の保存と活用に向けた発掘調査を、令和2年(2020)度からは崩落した石垣の修復に伴う発掘調査を実施している。今回はこのうち、令和2年度の南多門堀底、令和4年(2022)度の千貫櫓台、2つの石垣の発掘調査成果を紹介したい。

吉田城復元鳥観図
江戸時代前期ごろの吉田城復元鳥観図。城下町は東海道の宿場でもあったので、町屋が充実し栄えていた
(作画/香川元太郎、所蔵/豊橋市教育委員会)

南多門堀底石垣の元来の規模が明らかに

南多門は本丸正面に築かれた多門櫓で、調査は隣接する堀底部分で行われた。調査の発端は、令和2年度に実施した石垣健全度確認調査において石垣面から生育する樹木による孕(はら)み出しが指摘され、その現況確認が必要とされたことによる。

調査の結果、現在の堀底は築かれた当初から約3m埋没しており、元来は約12.6mもの高さを有していたことが判明した。これは城内最大の鉄櫓(くろがねやぐら)石垣(約12.7m)に匹敵する規模である。本丸正面を堅牢に固め、かつ荘厳に飾る目的があったと考えられる。

また高石垣に加えて、高さ約2.1mの腰巻石垣が確認された。これは本丸南東側が石垣を築かない切岸であるため、その基底部を固めるための構造と考えられる。

吉田城、南多門堀底石垣
南側から撮影した、南多門堀底石垣に生育する樹木

吉田城、高石垣、腰巻石垣
南西側から撮影した、埋没していた高石垣(写真左手前)と、腰巻石垣(写真右奥)

崩落した石垣の内部から古い時代の石垣を発見

千貫櫓(せんがんやぐら)は本丸南西隅に築かれた三階櫓で、櫓台は東西18.0m、南北15.8mと城内最大の面積を誇る。明治時代以降に櫓台上で生育した大木の影響等により損傷が蓄積し、令和3年5月の大雨により大規模な崩落が生じてしまった。発掘調査は崩落した石垣の修復工事に伴い、令和4年度に実施した。

吉田城、千貫櫓台石垣
南東から撮影した、崩落した千貫櫓台石垣

調査の中で、興味深い事実が判明した。崩落した石垣内部から、より古い時代の石垣が発見されたのである。このことから千貫櫓台の東側付近の石垣は、かつて崩落した石垣の下部を部分的に残し、それを覆い隠すように埋め殺し、新たに石垣を築いたことが明らかとなった。この埋め殺されていた石垣には孕み出しと考えられる歪みが残されており、出土遺物や古絵図から、宝永地震(1707年)より後、安政東海地震(1854年)より前のいずれかの段階で崩落とそれに伴う修復が行われていたと推定される。

吉田城、千貫櫓台石垣
南から撮影した、千貫櫓台の新旧2時期の石垣

本丸の一体的な整備を物語る事例か

南多門堀底石垣と千貫櫓台の埋め殺し石垣には、共通点が多い。具体的には、①築石の石材種は花崗岩類を中心に少量の蛇紋岩や緑色岩等が混ざり、②築石の大半は加工を行わない野面石か低加工度の素割石で、少量の矢穴石やハツリ加工が確認された。これらは野面積みと打ち込み接ぎの中間的技法と言える。また、南多門堀底の腰巻石垣西端では、未発達な算木積みとなることも特徴的である。

吉田城が石垣を多用する構造となったのは、天正18年(1590)の池田照政の入城以降のことである。さらに地理的制約から、採取できる石材の種類には時代ごとに差異がある。こうした状況から、本丸南面一帯の石垣は、安土桃山時代の城主である池田照政以降、江戸時代初めの吉田藩主・松平忠利のいずれかの時代に、一体的に整備された可能性が指摘できるのである。

吉田城、千貫櫓台石垣
南多門堀底石垣(左)と、千貫櫓台の埋め殺し石垣(右)

史跡の保存活用を目的とする確認調査と、石垣の修復を目的とする調査、2つの成果の繋がりによって、城址の歴史を解明する上で重要な成果を得ることができた。石垣の損傷や崩落という不幸な出来事に端を発する調査ではあるが、こうした機会を史跡の魅力向上に繋げるべく、今後も取り組みを進めていきたい。

吉田城(愛知県豊橋市)
明応5年(1496)頃、今川氏親の勢力下にあった牧野古白が築城した今橋城を前身に、江戸時代には2つの御殿や9棟の櫓からなる城郭へと整備された。また城郭の北を流れる豊川と城を合わせた景観は東海道の景勝の地として有名で、歌川広重ら著名な浮世絵師らのテーマになった。城郭の中心部が市の史跡に指定されている。

執筆/中川永(豊橋市美術博物館)
写真提供/豊橋市教育委員会

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