2022/11/24
お城の現場より〜発掘・復元最前線 第42回【弘前城】石垣の修理工事で井戸跡や排水跡を発見
城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第42回は、本コーナーの第1回でも取り上げた弘前城(青森県弘前市)。現在も着々と進む、本丸東面石垣修理に伴う発掘調査の新たな成果を、弘前市公園緑地課の石ケ森沙貴子さんがご紹介します。
弘前城跡本丸東面石垣の調査
東北地方唯一の現存天守の残る弘前城は、弘前藩主津軽氏の居城として慶長16年(1611)に築かれた。当初は本丸南西隅に五重の天守が立っていたが、寛永4年(1627)に落雷により焼失。その後、江戸時代後期に現在の三重三階天守が、本丸南東隅の石垣上に再建された。明治時代に本丸東面石垣が二度崩落し、大正時代に現在の形に修復された。
1983年5月の日本海中部地震を契機に本丸東面石垣崩落の危険性が指摘され、2014年から石垣の修理事業がスタート。石垣修理は天守の真下でも行うため、翌年には天守を持ち上げて移動させる曳家工事が行われた。現在、天守は本丸内部の仮天守台に置かれている。
弘前城の三重三階天守。曳家で、仮天守台に移動している
2017年から現在までに築石2,185個を解体し、石垣背面の発掘調査を実施した。調査では慶長期(築城期・約400年前)、17世紀中頃~寛文期(約370年前)、元禄期(約320年前)、大正期(約100年前)の4時期の石垣が確認されたほか、石垣背面で新たな遺構の発見もあった。
弘前城跡本丸東面石垣の解体工事(2018年11月撮影)
正保2年(1645)の「津軽弘前城之絵図」。赤線で囲んだ部分が、今回発掘調査の行われた範囲。中央部「石垣ノ築掛三十八間」には、元禄期に石垣が築き足された(弘前市立博物館蔵)
地中に埋まっていた井戸跡、排水跡を発掘
今回の発掘調査で、石垣解体前より地中に埋まっていた井戸跡の構造が確認された。井戸跡の掘方は直径約9mの楕円形をしており、東側に長さ約5m(4~8石)、高さ8m(11段)にわたる石組を伴っていた。
井戸枠は、東側の石組11段目付近の深さで、掘方中央部に二重になって発見された。ともに正方形の木枠で、外側が一辺約1.7m、内側が一辺約1.2m。2つの木枠の間には砂が詰められており、井戸水をろ過する働きがあったと考えられる。
井戸跡(南東から撮影)。木でできた正方形の井戸枠が発見された
寛文13年(1673)の「御本城御差図」。赤線の内側に井戸が描かれている(原本は弘前市立弘前図書館蔵/上図は弘前市立博物館1984『絵図に見る弘前の町のうつりかわり』より引用)
寛文13年(1673)の絵図で同地点に井戸が描かれていることや、後述する埋没石垣との関係性から、井戸の構築年代は17世紀中頃から寛文13年の間と推定される。また、使用されている状態の井戸を写した昭和初期の写真があることから、井戸は改修を受けながら、250年以上も使用され続けていたようだ。
昭和初期の井戸(山上笙介1981『ふるさとのあゆみ弘前Ⅱ』津軽書房より引用)
また、井戸跡の他に排水跡も発見された。排水跡は、石垣の中段に設けられた蛇口(じゃぐち)から、本丸での生活排水等を内濠へ流した施設だ。蛇口の背面には、石でつくられた暗渠(あんきょ:地下水路)があった。暗渠の下部には元禄期の構造が残る一方で、上部は19世紀以降につくり直されており、暗渠の下部はスロープ状、上部は階段状となっていた。
元禄期の排水跡(東から撮影)。上部は19世紀以降につくり直されていた
その他、上述した元禄期の石組排水跡の南側に、元禄期以前に機能していた木樋(もくひ)を埋設する構造の排水跡も確認されている。
木樋を埋設した排水跡(北東から撮影)
元禄期に埋められた埋没石垣の発見
本丸東面の北側では、元禄期の石垣を構築する際に埋められた、東西方向へのびる石垣を発見した。この石垣は、自然石を積み上げた「野面積(のづらづ)み」という積み方でつくられており、出土遺物や絵図等の史料より、17世紀中頃から寛文13年(1673)の間に築かれた石垣と考えられる。
埋没石垣(南東から撮影)
本丸東面石垣の積み直し工事は、2021年6月より本格化しており、2024年度まで続く予定だ。2022年10月25日現在で、763石の積み直しが完了している。
工事では、発掘調査で確認された江戸時代の石垣の勾配や背面構造を再現するほか、石垣背面からの湧水を速やかに排水する等の各種対策を講じることで、石垣の歴史的価値を守りつつ、長く健全な状態を保てるよう工夫している。
弘前城(青森県弘前市)
弘前城は、弘前藩初代藩主・津軽為信(つがるためのぶ)により計画され、2代藩主・信枚(のぶひら)により、慶長16年(1611)に築城された。当初は「高岡城」と呼ばれ、本丸南西隅に五重の天守を構えていたが、寛永4年(1627)に落雷により焼失。翌年に地名が「高岡」から「弘前」へと改められたのに伴い、城の名称も「弘前城」となった。その後約200年間、天守のない状態が続いたが、文化7年(1810)に現在の三重三階の天守が本丸南東隅に再建された。
執筆/石ケ森沙貴子(弘前市公園緑地課)
写真提供/弘前市公園緑地課