2020/04/08
日本100名城、続日本100名城に負けない名城 第4回 利神(りかん)城[兵庫県佐用町]
惜しくも「日本 100 名城・続日本 100 名城」になれなかった名城を、加藤理文先生が全国各地からピックアップし、その見どころを解説していきます。第4回は、利神(りかん)城(兵庫県佐用町)。利神山の山上に今も残る見事な総石垣などの見どころに迫ります。
因幡(いなば)街道の宿場町として栄えた平福(ひらふく)宿の北東に位置する利神山(標高373m)山上に位置する山城です。平福は朝霧の名所でも名高く、山上の天守が霧の上に浮かんだ偉容から雲突(くもつき)城とも呼ばれました。石垣を含めた城跡の破壊が進んだため、平成27年(2015)度から石垣の修復や整備などを開始し、同29年に国の史跡に指定されました。しかし、現在「石垣」が崩落の危険性があるため、残念ながら入山することは出来ません。

三ノ丸大手口より見た本丸と天守丸
手前石垣が大手口、中段が本丸西面の石垣で最左端の突出部が櫓台、最上段が天守丸になります
利神城の歴史
貞和5年、正平4年(1349)に赤松氏一族の別所敦範(べっしょあつのり)によって築城され、赤松氏の居城白旗城(兵庫県)の北の守りとしての役割を担いました。天正5年(1577)織田信長の命を受けた羽柴秀吉が進攻すると時の城主別所定道(さだみち)は羽柴氏に恭順の意を示します。しかし、本家筋の三木城(兵庫県)城主別所長治(ながはる)が織田氏に反旗を翻すと、これに従ったため、天正6年(1578)織田方に属す尼子(あまこ)氏に攻められ落城しました。同年、上月(こうづき)城(兵庫県)が毛利氏に攻められ落城すると、毛利方の宇喜多直家の所有する城となります。その後、宇喜多氏は、秀吉の配下となったため、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦まで領有を続け、その間に石垣、瓦葺建物を持つ城へと変化したのです。
関ヶ原合戦後、播磨を領有した池田輝政は、慶長6年(1601)甥の由之(よしゆき)に平福領2万2千石を分与します。由之は城を大改修し、三重天守を構え総石垣とし、山麓に城主屋敷を置き、武家町、街道沿いに町人地を設けた城下町を整備したと言われます。同14年(1609)由之が下津井(しもつい)城(岡山県)の城番となった時点で、天守など主要建造物は取り壊されてしまいました。元和元年(1615)輝政の六男輝興(てるおき)が2万5千石を与えられ平福藩が立藩し城主となります。だが、寛永8年(1631)輝興が赤穂藩を嗣ぐことになったため、廃藩となり利神城も廃城になりました。

佐用町観光協会発行のパンフレット『時を越え戦国の地へ 官兵衛ゆかりの佐用「三城」を巡る』より転載
城の構造
最高所に位置する天守丸(天守曲輪)と本丸が位置する曲輪を中心とし、ここから派生する尾根筋に曲輪が展開しています。曲輪の位置や空堀などは別所時代まで遡る可能性があります。最初に、石垣や瓦葺建物が持ち込まれるのは、宇喜多時代のことで、今ある姿が完成したのは池田時代になります。
天守丸は、慶安3年(1650)の「平福村絵図」で「旧天守屋敷」と記載されています。南北33.5m×東西27.5mと決して広くはありません。シノギ積を多用することで、不等辺の多角形を形成する石垣は織豊期の特色です。高さは、北側のみ9mを越えますが、他は2~4m程と高くはありません。虎口は北側に設けられています。天守が存在したことはほぼ確実ですが、明瞭な天守台は見当たらないため、高知城(高知県)のように、本丸角地に築き、内側に石垣を積んでいなかったのでしょう。

天守丸から見た本丸南西部
本丸北から南側に比較して、一段下がっています。尾根続きが三ノ丸です
天守丸の北から東、南へと回り込むように本丸が位置しています。北側と東側の本丸は、中央部に中仕切りの石垣が配され、北側が80㎝ほど低くなっていました。東側と南側は、約4mの段差があり、南側が低い曲輪です。北側と東側本丸は、南北約50mで、東西は23m程ですが、天守丸の東下は狭くなります。北側と東側の本丸と天守丸との高低差は、約2mとそれほど高低差はありません。南側本丸は、25m×12m程の規模になります。天守丸との高低差は約7mと、こちら側は高くなっています。本丸を取り囲む石垣の高さの違いを確認しておきましょう。本丸の北側が、東約6~9m、北約10m、西約6m、南側で東8m、南10m、西6mになります。本丸の周囲は、5m以上の高さを持つ高石垣で取り囲まれていました。

本丸西面の石垣と櫓台(左端)
石垣の高さは5~6m、最奥の崩落する石垣部分が櫓台です
天守丸の西下から、本丸の南下を取り囲むように設けられた曲輪を二の丸と呼んでいます。南側に位置する曲輪は、曲輪状となりますが、残りは幅が10m程の帯曲輪状の曲輪と突出した櫓台でした。南側の二の丸は、直上の本丸との高低差約10mで、西側に高さ7m程の石垣が積まれています。西側を取り巻く帯曲輪状の二の丸は、天守丸との比高差が18~11mで北側に向かって高くなっています。中央部は10m四方程の櫓台で、西側の石垣は、高さ5~6m程になります。この中枢部の構造は実に見事としか言いようがありません。ほとんどか、5m越えの高石垣です。利神城、最大の見どころと言ってよいでしょう。
二の丸から、西側に伸びる尾根筋(三ノ丸)も石垣造りです。西側突端の曲輪は、東西34m×南北17mの規模で、虎口が二ヵ所設けられていました。北側の虎口は内枡形状となり、山麓居館からの登城路の大手口と推定されます。南側も内枡形状で、南東下に位置する井戸跡へと続いています。二の丸との通路は石垣で狭め規制していました。

本丸から三ノ丸虎口へと続く石垣
緩斜面に高さ6m程の石垣が積まれ、圧倒的な迫力です
南側に伸びる尾根筋にも、石垣積の曲輪群が展開しています。長さが45m程の二つの曲輪と、二の丸直下に櫓台を持つ城門遺構と推定される曲輪があります。石垣が認められるのはここまでで、これより下に付設する曲輪は、土造りの曲輪になります。
山麓に城主居館が設けられました。居館は、中央に「うわがみ門」を設け、南と北の石塁によって城域を区切っています。居館前面の堀は、庵(いおり)川と佐用(さよう)川を利用しています。うわがみ門の北側が「城主常屋敷」と呼ばれ、周囲より1m程高い石垣で囲まれていました。一部、智頭(ちず)急行智頭線の軌道によって分担されていますが、良好な状態を保っています。

うわがみ門跡
この門の北側に「城主常屋敷」があり、南北150m×東西70m程の広さを有しています
城の見どころ
利神城の見どころは、総石垣の中枢部の石垣につきます。崩落している部分もありますが、残された石垣は実に見事です。特に、天守丸から南側の尾根筋に伸びる高低差のある曲輪側面を連続する石垣で接続した技術力の高さには圧倒されます。尾根筋から周囲に派生する曲輪群には、石垣構築前段階の堀切や土塁等の遺構が残ります。前段階の遺構ではありますが、石垣ラインとマッチし、確実に機能を果たしています。石垣を構築する段階で、先行遺構を巧みに取り込んだ結果として評価されます。織豊大名が、山上部の城に入った場合、多くが利神城のように先行の遺構群を利用して、石垣造りに変化させました。そうした状況を、非常に良く残した城としても貴重です。
旧城下町の平福は、城が廃絶された後も、因幡街道の宿場町として栄え、街道沿いに建つ家々の格子やウダツといった意匠、佐用川沿いに連なる川座敷や土蔵群など、現在もかつての宿場の面影を伝えています。ここには、江戸時代松平氏が平福陣屋を築いています。陣屋の門は、今も残されています。
利神城の基本情報
<住所>
兵庫県佐用郡佐用町平福
<アクセス>
智頭急行鉄道「平福駅」から徒歩約10分
※石垣や登山道での崩落の危険があるため、現在は登城できません
次回は「肥後・愛藤寺城(熊本県上益城郡山都町)」です。
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公益財団法人日本城郭協会 理事、学術委員会副委員長
NPO法人城郭遺産による街づくり協議会監事
1958年 静岡県浜松市生まれ
1981年 駒澤大学文学部歴史学科卒業
2011年 広島大学にて学位(博士(文学))取得
(財)静岡県埋蔵文化財調査研究所、静岡県教育委員会文化課を経て、現在袋井市立浅羽中学校教諭









