お城の現場より〜発掘・復元最前線 第37回【太田城】近世絵図にはない大規模な堀跡の発見

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第37回は、平安時代から戦国時代末期まで常陸国の大部分を治めた佐竹氏の居城・太田城(茨城県常陸太田市)。なんと近年の発掘調査で江戸時代の絵図には描かれていない大規模な堀跡が発見されました。常陸太田市教育委員会文化課の山口憲一さんが詳しく紹介します。

約400年、佐竹氏の政治拠点とされた大規模城郭

太田城は、茨城県常陸太田市の南部に位置する標高38mの台地上に築かれた平山城である。天仁2年(1109)頃、藤原通延が太田郷に入り、築城したのが始まりとされている。その後、常陸佐竹3代隆義が太田城主藤原通盛(通延の孫)から城を奪い太田城に入り、以降400年にわたり佐竹氏代々の居城となった。

太田城の最大城域は、戦国期と推定され、その頃の城域は、南北900m、東西400mにわたると考えられる。

太田城
太田城の範囲と調査地

太田城、舞鶴城碑、城郭遺構
写真左:舞鶴城碑。写真右:小学校敷地内に残る城郭遺構(斜面部)

太田城の本郭にあたる場所には、現在太田小学校が所在する。敷地内には「舞鶴城碑」(太田城の別称)が所在する。かつての太田城の遺構は小学校敷地内の土塁や斜面、太田病院付近の切岸、帰願寺の土塁など一部しか見ることができない。これまでに発掘調査は行われておらず、地上に残る遺構も少ないため、戦国大名の本拠地でありながら、いまだその全貌が解明されていない城郭である。源頼朝の佐竹氏攻撃や南北朝の騒乱では、佐竹氏は本城を放棄し金砂山城に籠っていることから戦闘用の城ではなく、領内統治のための政庁的性格を有していると考えられる。 

近世絵図にはない大規模な堀跡

発掘調査は、本郭北側の外郭にあたる場所で行われた。日本たばこ産業不動産が所有していた土地の埋蔵文化財調査のため、平成20、29年に試掘調査を行った結果、敷地内に堀跡や溝跡、古代の竪穴建物跡などが確認された。

太田城、調査地
調査地全景

太田城、遺構平面図
遺構平面図

令和元年度に道路改良工事に伴う調査が実施され、この時にも大規模な堀跡が確認された。令和2年度には、堀跡の全容を解明するべく追加調査が行われ、大規模な堀跡が姿をあらわした。

太田城、第2号堀跡
第2号堀跡掘削作業状況 ※現在は、埋め戻されています

調査区内で最も規模の大きな堀は、第2号堀跡Bであり、その規模は、全長203m、幅8m、深さ4.7mを誇る薬研堀の堀である。築造時期は16世紀前葉、戦国期から織豊期の佐竹氏の勢力拡大の時期と推定される。

太田城、第2号堀跡
第2号堀跡B ※現在は、埋め戻されています

判明した堀跡(特に2号堀跡B)は、堀幅・深さ・傾斜角度において、常陸国内でも高いレベルの土木技術を用いていると推測される。本郭を分ける堀跡ではなく、その外郭を分ける堀跡としては大規模な堀跡であるため、戦国大名佐竹氏たる居城にふさわしい土木工事の痕であると考えられる。

しかしこれらの堀は近世の絵図には書かれていない!

太田城、太田村御検地反別絵図
太田村御検地反別絵図 弘化3年(1846)
中央の「御殿」を囲み、東側の大手門から左右に青く塗られている部分が当時現存していた堀である(今回の調査地は赤枠で表示)

常陸佐竹氏は、豊臣政権下では全国8番目の石高を誇る大大名であった。その本拠地となる太田城は、慶長7年(1602)の秋田への国替え以降は、水戸徳川家家老中山氏により管理されていた。中山氏が滞在する陣屋は、「太田御殿」と呼ばれ、幕末期の絵図においても確認できるものの、今回の調査で明らかとなった堀跡については、描かれておらず、発掘調査によりはじめて現代に姿をあらわした。

太田城跡推定縄張図
太田城跡推定縄張図

今後は、令和4年(2022)3月に刊行される発掘調査報告書の内容を踏まえ、太田城跡の歴史を次世代へ継承していくため、その継承案や活用案を検討していく予定である。

太田城(茨城県常陸太田市)
平安時代末期に、佐竹隆義が太田城主藤原通盛から奪って以降、戦国時代末期に当主の義宣が水戸城に本拠を移すまで、佐竹氏の居城となった。入城の際に上空を鶴が舞ったことから「舞鶴城」という別称が付いたと伝わる。関ヶ原の戦い後、慶長7年(1602)に佐竹氏は出羽へ転封となり、太田城は廃城となったが城の一部は残され、水戸藩家老中山氏が「太田御殿」として管理を続けた。明治期に一部を除いて堀などが埋め戻され、現在は本郭と考えられる位置に太田小学校が建っている。

執筆/山口憲一(常陸太田市教育委員会文化課)
写真提供/常陸太田市教育委員会

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