お城の現場より〜発掘・復元最前線 第31回【金沢城】明治時代に焼失した櫓門の復元

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第31回は、平成から令和にかけて大規模な復元事業が行われている金沢城。2020年7月に完成式が行われた鼠多門復元事業について、石川県土木部公園緑地課の八幡昌史さんが紹介します。



金沢城マップ
金沢城マップ。今回復元された鼠多門は、玉泉院丸庭園と尾山神社をつなぐ位置に存在していた

明治の火災で失われた黒漆喰の櫓門

金沢城の歴史は、天文15年(1546)に本願寺が金沢御堂を創建したことからはじまる。その後、天正8年(1580)に織田信長の命を受けた佐久間盛政が築城をはじめ、3年後の天正11年(1583)に前田利家が入城し、明治2年(1869)まで加賀藩前田家14代の居城として置かれた。明治以降は陸軍の拠点となり、戦後は金沢大学のキャンパスとなったが、大学の移転にともない、1996年に石川県が用地を取得し、金沢城公園として整備を進めている。

金沢城、鼠多門
2020年7月に完成した鼠多門と鼠多門橋

鼠多門(ねずみたもん)は、城の西側に位置し、玉泉院丸から金谷出丸(現在の尾山神社境内)へ通行する櫓門。創建年代は不明だが、江戸前期には存在していたことが絵図で確認されている。江戸時代を通じて存在していたが、明治17年(1884)に火災により焼失してしまう。2014年より復元に向けた発掘調査や絵図・文献調査が行われ、2018年に着工。2020年7月に鼠多門橋と合わせて復元整備された。

金沢城、鼠多門、鼠多門橋
尾山神社側から見た鼠多門と鼠多門橋

鼠多門橋は玉泉院丸と金谷出丸を隔てる水堀に架けられた城内最大規模の木橋であった。鼠多門同様、創建年代は明らかになっていないが、江戸時代前期には既に存在しており、明治10年(1877)に老朽化により撤去。その後は水堀も埋め立てられ、長らく面影は失われていた。

金沢城、鼠多門
発掘調査によって特定された鼠多門の外郭線位置

発掘で明らかになった門の姿

鼠多門の発掘調査では、鼠多門の外郭線、門の礎石位置を特定できたほか、礎石の一部通路部の側壁石垣の下部が遺存していたことなど、明治17年(1884)に焼失した鼠多門に関する各種の遺構を検出し、規模、構造について確認することができた。

金沢城、鼠多門、黒海鼠漆喰
出土した黒漆喰仕上げの「海鼠漆喰」。これにより、鼠多門は黒漆喰仕上げの海鼠壁で復元された

また、鼠多門の特徴である、黒漆喰仕上げの「海鼠漆喰」が出土したことから、鼠多門の海鼠壁は、黒みがかった鼠色であったことが明らかになっている。

金沢城、鼠多門、発掘調査
鼠多門橋の発掘調査の様子

金沢城、鼠多門、橋脚
調査で確認された橋脚

鼠多門橋の調査では、明治10年(1877)に撤去された橋脚遺構も検出された。それ以前の橋脚遺構も検出できたことから、数度にわたり架け替えが行われたことを確認することができた。

金沢城、鼠多門、壁石垣
鼠多門側壁石垣の検出状況

鼠多門の通路両側の石垣は、明治17年(1884)に門が焼失した後大部分が撤去されたが、発掘調査で数段分の石垣の残存が確認された。金沢城の多くの石垣と同様に戸室石が用いられていたことや、石を隙間無く積む切石積みの技法で積まれていたことが明らかになった。石垣の復元にあたっては、転用された石垣の再利用や、損傷した石材の修理など、旧材を積極的に活用した。

金沢城、鼠多門、黒海鼠漆喰
外壁復元工事の様子。外壁は漆喰仕上げの「海鼠壁」だ

鼠多門の外壁には海鼠(なまこ)壁が用いられている。海鼠壁とは、張り付けた瓦の目地を漆喰で盛り上げ、なまこの形に塗ったもの。金沢城の他の櫓や長屋では白漆喰による海鼠壁が用いられているが、鼠多門では黒漆喰仕上げとなっており、これは現存する城郭建築では全国的にも例がないものである。

金沢城、鼠多門
鼠多門梁間断面図。木組みには釘を使用しない「木造軸組工法」を採用している

門の柱・梁・扉等の木材には欅(関東地方産)、櫓の梁には松(東北地方産)、櫓の側柱・壁板・床板等には能登ヒバ(石川県産)、化粧屋根裏板には杉(石川県産)を使用しており、全体の約75%は石川県産材が使用された。

鼠多門と尾山神社をつなぐ鼠多門橋の整備

金沢城、鼠多門
剛結された橋上下部。ここから麻板や橋脚に木材の覆いをかける

鼠多門橋の整備にあたっては、発掘調査で確認された道路ができる前の堀底や橋脚の遺構を保護。その上に橋を整備することとし、橋下部は遺構を保護するため杭基礎とせず、基礎コンクリート盤と橋脚・鋼床版を一体的に剛結する構造とすることで耐震性を確保した。鋼材は、城郭景観と調和を図るため鋼材の外側を木で覆っている。

金沢城、鼠多門、橋脚
木材で覆う作業中の橋脚の様子

また、道路上空の高さを確保するため、舗装面から橋桁までの高さは4.7mとなっている。

令和2年(2020)7月18日に完成式が執り行われ、一般供用を開始。門と橋の完成により、約140年ぶりに往時の城郭景観が甦ることとなった。さらに、長町武家屋敷跡から尾山神社を経て、金沢城公園、兼六園、本多の森公園へとつながることによって、城下町の回遊性が高まり、より金沢の魅力を楽しんでいただけるようになった。


金沢城(かなざわ・じょう/石川県金沢市)
江戸時代を通じて加賀藩前田家の居城だった。前身は一向宗の寺院・金沢御堂で、加賀の一向一揆が制圧された後、佐久間盛政が居城とした。賤ヶ岳の戦い後に前田利家が入り、利家と息子の利長によって築城が進められた。何度も落雷や火災に見舞われその度に修復が行われたため、様々な時代の石垣が残る「石垣の博物館」として城ファンに注目されている。

執筆/八幡昌史(石川県土木部公園緑地課)
写真提供/石川県土木部公園緑地課