お城の現場より〜発掘・復元最前線 第30回【水戸城】よみがえる水戸城大手門と二の丸角櫓

城郭の発掘・整備の最新情報をお届けする「お城の現場より〜発掘・復元・整備の最前線」。第30回は、徳川御三家の一角を担った水戸藩の居城・水戸城。市民の尽力によりよみがえった大手門は、どのような工法で復元されたのか。水戸市教育委員会の担当者が紹介します。



水戸城、大手門
令和2年(2020)2月に公開された大手門。高さ約13mの櫓門は、御三家にふさわしい偉容だ

御三家の城によみがえった大手門

水戸城は平安時代末から鎌倉時代初めに、馬場資幹(ばばすけもと)が現在の本丸付近に居館を構えたのが起源とされている。平山城で、城郭には石垣がなく、全て土塁と堀で構成されていた。応永33年(1426)に江戸重通(えどしげみち)、天正18年(1590)に佐竹義宣(さたけよしのぶ)が居城を構えてから城は拡大され、二の丸・三の丸が築かれる。慶長7年(1602)以降は、徳川家康の息子が交替で水戸城主となり、慶長14年(1609)に城主となった徳川頼房(とくがわよりふさ)を水戸藩初代藩主として、御三家水戸徳川藩が成立。以後十一代にわたって御三家の居城として栄えた。

その後、寛永2年(1625)から同15年(1638)にかけて、頼房が水戸城の普請を行う。手狭な本丸は倉庫となり、二の丸が実質的な本丸となった。さらに天守に相当する御三階櫓もこの時期に築かれている(当時は三階物見と呼んでいた)。その後、明和元年(1764)の火災で水戸城のほとんどが焼失したが、明和6年(1769)に六代藩主・徳川治保(はるもり)により御三階櫓などが再建された。

明治維新後、明治4年(1871)の廃藩置県で廃城となり、翌年の不審火により殿館などが焼失してしまう。大手門は明治期に取り壊され、残っていた三階櫓も1945年の水戸空襲により焼失。これにより水戸城の建造物は、弘道館の一部と薬医門を残しほとんどの遺構が失われてしまう。

水戸城は石垣を持たない平山城であり、城の特徴である巨大な堀も、現在はJR水郡線と県道に利用され、その地形が現代社会に溶け込んでいることから、長らく城郭として認識されていない時期が続いた。

水戸城、大堀切
二の丸と本丸を隔てる大堀切。JR水郡線の線路が通っている(写真=かみゆ歴史編集部)

平成21年(2009)に茨城県坂東市の万蔵院で水戸城大手門のものと伝わる扉が発見されたことが記事になったのをきっかけに、水戸城お膝元である水戸市三の丸地区の地元有志が「水戸城大手門復元の会」を設立。大手門を復元するための基金を募った。その輪は瞬く間に広がり、半年間で約3,000人、金額にして約200万円が集まり、その浄財を水戸市へ寄付。これが復元への第一歩となった。

この思いを受け継いだ水戸市は、3年をかけて古絵図や古写真をはじめとする歴史資料の調査や発掘調査を行った。これにより復元の根拠が揃えられ、平成26年(2014)に市の総合計画に位置付け、本格的に復元整備に着手した。

水戸城大手門は城の正門にあたる最も格式の高い門であり、土塁に取り付く城門としては,国内でも屈指の規模を誇る。建築高13.34m、桁行17.18m、梁間5.73mの木造2階建ての城門で、門の四隅には土塁との隙間を埋めるための練塀(瓦と粘土を交互に積み上げて作った塀)が取りついていたことが大きな特徴である。

復元整備では国産の良質な木材を組み上げ、藁を混ぜ発酵させた土で土壁を作り、発掘調査で出土した瓦を忠実に復元して屋根に葺くなど、創建当時の伝統工法で作業を進め、30カ月を要し令和元年(2019)9月に完成した。

伝統工法に則って進められた復元工事

復元整備の工程としては、学術調査や現場の発掘調査などの調査成果をもとに当時の工法を使用。工事の進め方は、まず平成30年(2018)6月に発掘調査等で判明した大手門の位置に基礎を設けた。そこから基礎回りの石工事や、その後に使用する木材の加工を行い、9月に建物の柱を建てる建て方を行った。柱については、長さが必要なため、木材と木材を組み合わせる継ぎ木を行い1本の柱とし施工。10月には梁や屋根の骨組みが施行された。梁に使用されている梁材は1本物の松が用いられている。

水戸城、屋根
屋根の骨組みの様子

翌年の2月には、屋根の下地となる土居葺きや壁の下地となる竹木舞の施工を実施。土居葺き部分では、雨漏り等を防ぐため油分を多く含む杉材を使用するなどの工夫が施されている。

水戸城、屋根、土居葺き
土居葺きが完了した屋根

そして土居葺きが完了すると同時に屋根部の瓦葺きが行われた。この屋根には、一般の方々から「一枚瓦城主」の寄付により記名された瓦が葺かれている。瓦葺きが順調に進む中、屋根の頂部では鯱瓦も設置された。そして屋根部に瓦がほぼ葺き終わる4月頃には大手門の大扉の吊り込みが行われ、この時点でほぼ完成形となった。残る土壁塗りや瓦部分の漆喰塗りは、5月から7月に行われ建屋が完成した。

水戸城、屋根、瓦葺き
屋根の瓦葺き作業の様子

水戸城、大扉
大扉の取り付けの様子

現在は、2020年9月の完成を目指し、二の丸角櫓と土塀の整備が進められている。こちらも大手門と同様、伝統工法で復元される予定である。


水戸城(みと・じょう/茨城県水戸市)
江戸幕府の御三家・水戸徳川家の居城。城外との比高は20mほどだが、那珂川と千波湖を天然の堀とする要害であった。慶長14年(1609)の徳川頼房入城以降、水戸徳川家の居城として栄えるが、明治5年(1872)の放火事件により城内の建物は御三階櫓を残してほとんどが焼失。さらに、太平洋戦争の空襲で御三階櫓も焼失してしまう。現在は、藩校・弘道館や移築された薬医問などが、かつての面影をわずかに留めている。


執筆/水戸市教育委員会

写真提供/水戸市教育委員会