萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第29回 大州城 肱川越しの姿が美しい、日本初の木造復元天守

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。29回目の今回は、築城時の工法によって天守が木造復元された大洲城(愛媛県)をピックアップします。



大洲城
JR予讃線の車窓から、肱川越しにのぞむ天守

4つの櫓が江戸時代から残る

近世城郭としての大洲城を築いたのは、天正15年(1587)に入封した戸田勝隆と考えられています。もともと大洲は「大津」と称し、14世紀前半から伊予守護の宇都宮氏の城として大津城が創建されたといわれています。

改修を行い城下町の形態を整えたのは、文禄4年(1595)に入った藤堂高虎と考えられ、発掘調査により天守台の地下から高虎時代の遺構と思われる巨石列が見つかっています。慶長14年(1609)に脇坂安治が居城と定めると、改修工事が進められ現在の城が完成しました。

天守は明治21年(1888)に取り壊されましたが、台所櫓、高欄櫓、苧綿櫓、三の丸南隅櫓の4棟は解体を免れ残っています。台所櫓と高欄櫓は、安政4年(1857)の大地震で大破した後、文久元年(1861)に再建されたもの。苧綿櫓は天保14年(1843)に再建されたものが現存しています。三の丸南隅櫓は、棟札によれば享保7年(1722)の火災により焼失した後、明和3年(1766)に再建されたようです。

大洲城、高欄櫓
現存する高欄櫓。天守と渡櫓で連結される

豊富な資料をもとに、木造で復元された天守

平成16年(2004)に竣工した、四重四階の天守が見どころです。戦後はじめて、築城時の工法により木造復元されました。

忠実な復元を叶えたのが、大洲藩作事方棟梁であった中野家に残されていた天守雛形の存在です。各階の柱の位置など、構造の概要を知る手がかりとなりました。

天守の外観を知る上で重要な資料となったのは、明治時代初期に撮影された古写真です。東面・北面・西面と3方向から撮影した古写真が残っており、とくに北面の写真は鮮明で、石垣の形や垂木の本数まで確認できます。天守雛形と古写真が揃う例は極めて稀です。

大洲城、苧綿櫓
現存する苧綿櫓

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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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