萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第24回 佐伯城 関ヶ原合戦後には珍しい、総石垣の山城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。24回目の今回は、続日本100名城の佐伯城(大分県)をピックアップします。



佐伯城
標高144メートルの山に築かれた、総石垣の佐伯城

豊臣秀吉の家臣だった毛利高政が築城

佐伯城は、慶長6(1601)年に2万石で佐伯に入った毛利高政が、慶長7(1602)年から築いた城です。平山城が主流となる関ヶ原合戦後の築城にもかかわらず、総石垣の山城を一から築いた全国でも珍しい城でもあります。慶長 11(1606)年に完成したとみられます。

番匠川の河口付近左岸にある標高144メートルの八幡山に築かれ、本丸、本丸外曲輪、二の丸、西出丸、北出丸から構成されます。本丸には天守相当の三重櫓のほか、二重櫓が5か所、平櫓が2か所あったようです。本丸は天守曲輪とそれを取り巻く帯曲輪の二段構造で、帯曲輪はニの丸よりも低いところにあり、天守曲輪には入れないつくりになっています。東と南の2か所に番所付きの冠木門を構えた虎口がありました。

北西斜面にある水の手には、北出丸と二の丸の谷部分を二段に渡って堰き止めた雄池と雌池と呼ばれる貯水池があります。いずれも石垣で固められており、山城の水の手としては貴重な完存例といえそうです。

本丸、廊下橋、石垣、佐伯城
本丸・廊下橋の石垣

新発見!本丸北面で見つかった4段石垣

寛永 14(1637)年には、御殿が山麓の三の丸に増築され、藩庁と藩主の居館は山頂部から移されました。山頂では不便だったのでしょうか。山上の城は使用されなくなったものの管理はされていたようで、宝永6(1709)年から19年かけて大修築され、それ以降も修復を繰り返しながら維持されたようです。

明治維新後は三の丸周辺を除き門や塀などは解体され、城山の大部分も国の所有となりました。三の丸御殿は明治以降も規模を縮小しながら校舎などに利用されていましたが、昭和に佐伯文化会館建設のために解体され、玄関周辺の一部だけが移築されています。唯一残る建物が、三の丸櫓門です。寛永14(1637)年に三の丸の御殿と同時に創建され、再建を重ねながら現存しています。

平成31(2019)年には、本丸下の外曲輪北側斜面で4段の階段状の石垣が見つかり話題となりました。高さは約13メートルで、長さは約30メートル。階段状の水平部分を石で覆って隅を丸く仕上げるなど、堤防などの石組みに似た治水技術を応用した特異な構造の石垣で、同様の石垣では国内最大級とみられるそうです。

「御城修理絵図」に描かれた享保19(1734)年の風雨で崩れた場所と一致していることから、城の石垣構築の技術と治山治水の技術を駆使して災害復旧を目的に築いたと推測されます。

佐伯文化会館、三の門
佐伯文化会館に残る、三の門


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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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