萩原さちこの城さんぽ 〜日本100名城・続日本100名城編〜 第21回 福井城 最強の県庁へと生まれ変わった城

城郭ライターの萩原さちこさんが、日本100名城と続日本100名城から毎回1城を取り上げ、散策を楽しくするワンポイントをお届けする「萩原さちこの城さんぽ~日本100名城と続日本100名城編~」。21回目の今回は、最強の県庁へと生まれ変わった城、福井城(福井県)をピックアップします。



山里口御門、廊下橋
復元された山里口御門と廊下橋

結城秀康が柴田勝家の城を取り込み築城

現在、福井城の本丸跡に建っているのは、福井県庁です。二の丸や三の丸に官公庁や学校がつくられていることはよくありますが、本丸が再利用されているのは珍しいケース。江戸時代に福井藩庁だった福井城は福井県庁となり、現在も引き続き行政の中心地として機能しています。朝の通勤時間に訪れると、人々がせわしく福井城へと登城する不思議な光景が見られます。

福井城は、関ヶ原合戦後に越前北庄に68万石で入った徳川家康の次男、結城秀康により築かれました。柴田勝家の居城だった北ノ庄城を取り込む形で大改修されたようで、本丸と二の丸は、家康が自ら縄張をしたといわれています。以後、約270年間17代にわたり越前松平家が治めました。明治以降の近代都市化や昭和の戦災や震災によって城の遺構はほぼ失われてしまいましたが、本丸を囲む壮大な石垣と水堀が往時の面影を伝えてくれます。

慶長11(1606)年にほぼ完成したとみられ、南側を流れる足羽川を外堀として、最大幅100メートルに及ぶ百軒堀(外堀)の内側に築かれていました。四重、五重に堀がめぐらされた立派な城でした。

本丸、石垣、水堀
本丸南側の石垣と水堀

再現された、松平春嶽の登城道

福井城と城下町は二度の大火に襲われ、とくに寛文9(1669)年の大火は足羽川北側のほとんどを焼く大惨事でした。この火災で、本丸北西隅にあった天守も焼失。68万石の城にふさわしい四重五階の天守で、慶長11(1606)年には完成していたとみられます。絵図には、最上階に望楼が乗ったバランスのよい天守が描かれており、高さは天守台を含めると約37メートルにも及びました。焼失後は再建されませんでしたが、坤櫓と巽櫓の2つの三重櫓が再建され、福井城のシンボルとなっていたようです。

2017年には、本丸西側に山里口御門が復元整備されました。山里丸と呼ばれた西二の丸と本丸をつなぐ門として築城時に建てられ、「廊下橋御門」「天守台下門」とも呼ばれます。1669(寛文9)年の火災で焼失後に再建され、明治維新まで失われずに残っていました。藩主の住居である御座所は、延宝3(1675)年に5代藩主の昌親が本丸から西三の丸(現在の中央公園)に移されました。文政13(1830)年には14代藩主の斉承が本丸に戻しましたが、16代藩主の慶永(春獄)が再び西三の丸に移しています。どうやら慶永の頃には、御廊下橋を渡って山里口御門をくぐり本丸へ向かったようです。

小天守台
天守台に隣接する小天守台。大きく崩れ歪曲しているのは、昭和23(1948)年の福井地震によるもの


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執筆・写真/萩原さちこ
城郭ライター、編集者。執筆業を中心に、メディア・イベント出演、講演など行う。著書に「わくわく城めぐり」(山と渓谷社)、「お城へ行こう!」(岩波書店)、「日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)、「戦う城の科学」(SBクリエイティブ)、「江戸城の全貌」(さくら舎)、「城の科学〜個性豊かな天守の「超」技術〜」(講談社)、「地形と立地から読み解く戦国の城」(マイナビ出版)、「続日本100名城めぐりの旅」(学研プラス)など。ほか、新聞や雑誌、WEBサイトでの連載多数。公益財団法人日本城郭協会理事兼学術委員会学術委員。

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